政尊が慶安元(1648)年天命図書安次に造らせたもので、梵鐘銘文を伊勢宇治真常院の僧、亮典が撰文している。
寛永21(1644)年京都智積院能化七世、運敞僧都の筆による。
北畠信意_天正三年(1575年) ※写真右
蒲生氏郷_天正年間 ※写真下左
稲葉大夫_慶長十三年(1607年)
藤堂和泉守_元和三年(1617年) ※写真下右
「資材帳」や「十一面観音(像高6.6m)」で知られる近長谷寺のある、長谷の城山には同寺よりさらに7〜8分登った山頂に近津長谷城とよばれる中世の城郭があったと伝えられてる。
外宮の神官の書いた「目安案」という文書の中に「伊勢近津長谷城」とその城主「外宮神官度会家行」の名があり貞和三年(正平二年:1347年)に南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)の挙兵に呼応しここに城を構えたことが書かれている。
境内へ入る手前に山頂への階段があり、これは平成元年に展望台として城郭跡を整備したときできたもの。
山頂の平坦部は45×10mほどの「く」の字形で「金毘羅さん」と呼ばれている小さなほこらがある。今は杉木立などでわずかに朝熊岳(あさまやま)の方角しか見渡せないが、城を築いた当時は眺望がよく効き城の南北を走っている吉野への道や伊勢本街道を展望できる地形であったと思われる。
城跡は標高291m。山頂からの急な斜面・斜面を削って作られた平坦地(曲輪:くるわ)・ふもとに向かって縦に掘られた竪掘(空堀)など、階段を横にそれて竹薮をかきわけて行くと中世城郭特有の人工的な地形に行きあう。階段の途中の平坦な場所に馬かけ場という呼び名が今も残っていたり、生えている竹も矢竹が多いことなど、城郭と関連づけられるのかもしれない。
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三重県多気郡多気町長谷202