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真言宗山階派 丹生山「近長谷寺」 official site

 

重文・寺宝Treasure

国指定重要文化財 近長谷寺資財帳(明治四五年二月八日指定)

近長谷寺資材帳

 資財帳には、「実録近長谷寺堂舎並資材田地等事」と題して諸堂や所有地のことなどが詳記されており、平安時代における南伊勢の土地の様子を知るうえでの手がかりとして、唯一の資料で、天暦七年(953年)の原本を、天徳二年(958年)に書き写したものである。
 最近の県の調査において、斎王宮女御三六歌仙の一人「徽子」斎王も近長谷寺を訪れた事実が、当資財帳に「白玉(真珠の意味)壱丸施入」と記されていることから明らかになった。

 書 紙本墨書 一巻 平安後期


国指定重要文化財 十一面観音立像(大正二年八月二十日指定)

十一面観音立像

 殆ど直立の寄木造りの巨像で、肩からの天衣は裳裾にて二重の円弧を作り、両手の端から出た天衣は垂直に近く、大きな曲線を描いて左右に垂れているため、この像をすらりとした壮麗な姿にしている。衣文は彫り浅く流麗な藤原調で、裾には平安前期式の鋭い衣のしわが作られ、そこに一木造りのような力強さを示している。

 彫 木造立像 一躰 平安後期 (八八五年建立)
 像高 6.6メートル

<参考>
 当寺院は、真言宗山階派に属し、丹生山近長谷寺と称して、仁和元年(885年)伊勢の国の豪族「飯高宿禰諸氏」が、人皇五八代光孝天皇の勅願所として、内外近親等に勧進して建立されたものである。
 飯高氏は奈良時代、四代の天皇(元正聖武淳仁孝謙)に仕えた妥女「飯高諸高」を送り出した豪族で、諸高は、性甚謙謹・志慕貞潔・典従三位を賜り、宝亀八年(777年)八十歳で奈保山に葬られるまで、多気郡勢和村丹生から産出する「水銀」で富を築き上げた。(続日本記より)

 御本尊十一面観音は、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音(三体の仏像を一本の樟から造られたものと伝えられている)」のひとつとして広く知られ、全国に二百ヶ寺以上あるといわれる大和長谷型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものである。


県指定有形文化財 近長谷寺本堂(平成二十一年三月十一日指定)

近長谷寺本堂

【近長谷寺本堂】
 多気町長谷の江戸時代中期建立の建造物。巨大な十一面観音立像を安置するため、中央は梁(はり)と束によって無柱の内部空間を実現するなど、近世的な技術を駆使している。

 建物 一棟 元禄七(一六九四年再建)

<参考>
 本堂は、中興の祖「真海上人」が、天文六年(1537年)勧進帳を出され五十年の歳月をかたむけ、天正末年に再建されたものである。その後政尊が僧堂を建てたが、元禄三年(1690年)の大雨洪水にて仏閣残らず破損。元禄七年(1694年)に現在の本堂が、快舜によって再建されたものである。(近長谷寺略縁起より)


町指定重要文化財 大日如来座像(平成元年十二月十一日指定)

大日如来座像

 木造金剛界大日如来座像は、智拳印を結び頬は肉付き豊かで、口はへの字に引き締まり、胸肉も豊かで腰部から大腿部にかけての衣文に、翻波がはっきり窺える。創建当初「光明寺」と称した名にふさわしい本尊である。

 像高 94.5cm


町指定重要文化財 近長谷寺庫裏(平成二十年四月十六日指定)

近長谷寺庫裏

 【近長谷寺庫裏】
 多気町長谷の江戸時代中期建立の建造物

 建物 一棟


寺院イメージ

真言宗山階派 丹生山「近長谷寺」

〒519-2176
三重県多気郡多気町長谷202