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真言宗山階派 丹生山「近長谷寺」 official site

 

略縁起HISTORY

略縁起

十一面観音立像

 当寺院は、真言宗山階派に属し、丹生山近長谷寺と称して、仁和元年(885年)伊勢の国の豪族「飯高宿禰諸氏」が、人皇五八代光孝天皇の勅願所として、内外近親等に勧進して建立されたものである。
 飯高氏は奈良時代、四代の天皇(元正聖武淳仁孝謙)に仕えた妥女「飯高諸高」を送り出した豪族で、諸高は、性甚謙謹・志慕貞潔・典従三位を賜り、宝亀八年(777年)八十歳で奈保山に葬られるまで、多気郡勢和村丹生から産出する「水銀」で富を築き上げた。(続日本記より)
 御本尊十一面観音は、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音(三体の仏像を一本の樟から造られたものと伝えられている)」のひとつとして広く知られ、全国に二百ヶ寺以上あるといわれる大和長谷型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものである。
 本堂は、中興の祖「真海上人」が、天文六年(1537年)勧進帳を出され五十年の歳月をかたむけ、天正末年に再建されたものである。その後政尊が僧堂を建てたが、元禄三年(1690年)の大雨洪水にて仏閣残らず破損。元禄七年(1694年)に現在の本堂が、快舜によって再建されたものである。また、五穀豊穣・開運・家内安全の守り仏として多数の信者を有し、伊勢の皇大神宮に近いということで近の一字を加え「近長谷寺」と改称されたのもこの頃である。なお現在の屋根は、昭和になって祐憲僧正が改修されたものである。
 現在では、毎年二月十八日を例大祭として、終日開帳し、厄除け祈祷、護摩法要などを行い、交通安全・学業・開運などの祈願所として、近郊近在の老若男女の崇拝の的となっている。


時代考察

近長谷寺本堂

 丹生山近長谷寺は、真言宗山階派、本尊は十一面観世音菩薩である。『勢陽雑記』に、「長谷 松坂より南、行程三里半。丹生の泊瀬は多気郡佐那村の内なれども、丹生へ続き世の人同じ里の様に心得る故、今爰に記す孝行天皇の開基の由。本尊長二丈の十一面観音、作者を知らず。丹生より二十町計り艮(うしとら・北東)の山の上に、六間に七間瓦葺なり。近長谷寺と云ふ。伊勢順礼の拾壱番目の札所。歌、大和なるはつせの寺もこれと又同じ御法の道にこそゆけ」とある。
 当寺は仁和元年(885)、この地の豪族正六位上飯高宿禰諸氏(法名仏氏観勝)が内外の近親等に勧進して建立したと伝え、以来、飯野・多気・度会の豪族が田地を寄進している。古くは丹生山光明寺と号したといわれる。

 本尊は平安後期に作られた木造十一面観音立像(像高6.6メートル)で、大正2年8月20日国宝(重要文化財)に指定されている。弘法大師の師、権像僧都の尽力により安置されたと伝えるこの像について、大和の長谷寺、鎌倉の長谷寺の本尊と共に一本の木で三体刻まれたともいい、日本三観音のひとつといわれている。同寺所蔵の『近長谷寺資財帳』(天徳2年=958書写、国指定重要文化財)は「金色十一面観音壱躰 御武一丈八尺」と像高を示し、以下、御面長から手長に至る13の各部位の大きさを詳細に記している。

 平安期も過ぎ、創建の飯高氏の勢力の後退に伴い、寺勢は衰えたが、永正(1504〜20)の頃、真海僧都(〜1594)が同寺の復興に務め、天正3年(1575)北畠信意(織田信雄)から、その後蒲生氏郷、牧村利貞などから寺領の寄進を受け、山内に七坊の末寺を有するまでに回復した。さらに二世の政尊(〜1653)は、慶長13年(1608)田丸城主の稲葉大夫道吉、元和3年(1617)津城主の藤堂高虎から寺領5石の寄進を受け、また、慶安元年(1648)には梵鐘の鋳造、鐘楼の建立に奔走するなど、中興と称された。
 江戸時代には紀州領で高5石の免許があった。寛文元年(1661)参詣した紀州藩の前藩主徳川頼宣が再興を命じた本堂の造営中に木工の仮小屋から出火、人々は懸命に消火に務めたが本堂近くに火が及んだ。ときの寺主快養僧都が一心に本尊を念じたところ、強風が起こり火勢は逆に向き、本堂は焼失を免れることができ、寛文3年(1663)落成したと伝える。
 元禄3年(1690)8月、大雨により堂後ろの山が崩れて本堂も損壊したが、本尊は難を逃れた。その後、元禄7年(1694)に現在も残る本堂が快舜によって再建された。「近長谷寺」と改称されたのもこの頃といわれる。(なお、現在の屋根は昭和に入り改修されたものである)
 また、庫裏に祀られている大日如来座像は、創建当初、光明寺と称されたときの本尊で秀作の尊像(像高94センチメートル)。
 平安中期の作とされ町の文化財に指定されている。

 伊勢神宮と近長谷寺の関わりあいについて、斎王宮女御三六歌仙の一人「徽子」斎王も近長谷寺を訪れた事実が、資材帳に「白玉(真珠の意味)壱丸施入」と記されている。
 源氏物語などを読むと斎王や長谷寺(長谷詣)の記述があり、斎王が伊勢でお仕えしている間、仏を念じなかったことで罰が当たったというような記述さえみられ、神仏習合が最も合理的な平安時代の信仰であったのだろう。
 さらに時代が進む南北朝時代(貞和三年:正平二年 1347年)に外宮の神官の書いた「目安案」という文書の中に「伊勢近津長谷城」とその城主「外宮神官度会家行」の名があり南朝方の楠木正行(くすのきまさつら)の挙兵に呼応しここに城を構えたことが書かれている。
 この時代の伊勢神宮神官は、外宮:度会家、内宮:荒木田家の一族が世襲しており、外宮神官度会家行は、内宮禰宜荒木田興時らとともに幕府軍と戦っている。
 「外宮神官度会家行」が構えた伊勢近津長谷城跡は、長谷寺よりさらに10分ほど登った山頂に城郭を構えた中世の山城で、南北に走る吉野への道や伊勢本街道を展望できる地形であったと思われる。


近長谷寺概要

《寺院名》 古くは丹生山、法名光明寺。泊瀬山近長谷寺。
     「ちかつはせ」と読む(近津長谷城)。

《本堂》「堂壱院【檜皮葺、高二丈三尺五寸、長二丈六尺、妻一丈六尺、法名光明寺】
     三面庇【高一丈二尺、長五丈六尺五寸、妻三文一尺】
     香蘭三面【南面長六丈四尺、東西妻長三丈六尺三寸】」(近長谷寺資材帳)
     他に僧坊、政所、鐘楼など。

《本尊》「金色十一両観音壱体【御武一丈八尺、光座卅三身化仏(以下略)】」(近長谷寺資材帳)

《由緒と変遷》
 885(仁和元)飯高諸氏仏子観勝、近長谷寺建立。
 「泰俊之先祖正六位上飯高諸氏、法名仏子観勝之御蔭存生間」(近長谷寺資材帳)
 953(天暦7)「近長谷寺資材帳」出来る。
 958(天徳2)「近長谷寺資材帳」書写。(現在伝わる書)
 1201(建仁)頃「近長谷寺資材帳」追補施入。
 1347(正平2)11月26日、村松家行神主、近津長谷城(標高291m)以下の諸城に布陣。
 1504〜20 真海僧都復興。
 1575 北畠信意(信雄)、蒲生氏郷、牧村利貞等寺領寄進。
 1585(天正13)3月、「近長谷寺資財帳」修復。
 1648(慶安元)鐘鋳造。
 1661(寛文元)紀州藩主徳川頼宣参詣。以後本堂再興、蓮台や錫杖など整う。
 1663(寛文3)徳川頼宣の助力で再興。
 1685(貞享2)檜皮葺きを瓦葺きに改める。
 1690(元禄3)洪水と山崩れで仏閣など残らず損失。※8月14日、松坂洪水、大橋半分流失。
 1692(元禄5)現在の境内地に遷る。
 ※「現在の境内地は元禄5(1692)年に尾根上に新たに開かれたものであり、これ以前には尾根の下の谷筋にあった」「三重県指定文化財概要」2009年3月11日指定。
 ※佐奈川はおんば滝が水源。

 1693(元禄6)本堂建立。※棟札、元禄7年。
 1715(正徳5)鐘楼再興。

《『近長谷寺資材帳』の価値》
 原本は953年成立と古い。奈良、平安朝の「資材帳」(財産目録)で伝存は稀。900年代の南伊勢を知る根本資料。発願者など、寺の由緒が記されている。寄進者の名前と田地の条里坪数、また四至を詳しく記す。多気町周辺に残る条里制と一致するところがある。

《創設された時代》
 645〜654(孝徳天皇)神郡建都。多気郡の郡司(督領・こおりのみやつこ)麻続氏・磯部氏。
 698(文武2)飯高諸高生・9月28日、伊勢等から朱砂と雄黄(鶏冠石・石黄)献上。
 713(和銅5)5月11日、伊勢より水銀を貢ぐ。
 721(養老5)大和川原寺の道明が初瀬に庵を開く。長谷寺の始まり。
 752(天平勝宝4)東大寺大仏開眼供養。
 772(天平宝字3)8月6日、伊勢大神宮寺を飯高郡度瀬山房に移す。
 777(宝亀8)5月28日、飯高諸高没(80歳)
 885(仁和元)飯高諸氏仏子観勝、近長谷寺建立。
 886(仁和2)京都と伊勢を結ぶ「阿須波(あすは)道j開通。現在の鈴鹿峠。
 927(延長5)『延書式』完成。
 936(承平6)徽子(よしこ)女王、斎王にト定。
 938(天慶元)徽子、伊勢郡行。
 945(天慶8)3月15日、徽子、母の菩提を弔うため白玉を近長谷寺に施入。退下。
 953(天暦7)「近長谷寺資材帳」出来る。
 958(天徳2)「近長谷寺資材帳」書写。(現在伝わる書)
 977(貞元2)正月11日、猪甘部、飯高上寺に小鐘を奉納する。笹川町山村庵ノ前出土。
   9月16日、斎宮規子内親王と母(徽子)伊勢に下向。

《資材帳に名前が載る氏族》
 飯高諸氏他6名・斎宮領允私部(きさいべ)有良・大中臣良扶他2名・丹生松総・斎宮寮宮人(?)藤原惟範他5名・犬甘今生、麻続在子他6名・物部康相他1名・伊勢石範他9名・敢安道・坂上有実他2名・日置畠布町他2名・中臣真有他2名・百済永珍・丈部薬円丸他2名・島田文兵・秦興足他1名・敢磯部望丸・宍人限丸・真神都安吉・磯部置嶋・橘高子他1名・荒木田有穂・県倉子・少瓜子・神祖父麻呂・竹元勝・中麻統

《女性・子がつく人》
 敬子(施入)・飯高乙子(施入)・飯高豊子(施入)・麻続在子(施入)・麻続孝志子(施入)・飯高女房廉(施入)・飯高積子・斎宮乳母橘高子(施入)・県倉子・少瓜子

《徽子、母の菩提を弔うため白玉を近長谷寺に施入》
 松風入夜琴 琴の音に峰の松風かよふらし いづれのをより しらべそめけむ
 徽子(よしこ)女王(925〜985) 斎宮女御、承香殿女御・斎王在任期間935〜946。948(天暦2)12月村上天皇に入内。同3年4月女御宣下。第四皇女規子内親王を出産。975(天延3)規子内親王、斎宮にト定。977(貞元2)規子(斎王在任期間975〜984)と伊勢に発向。帰郷後に出家。享年57。三十六歌仙の一人。

(2012年3月20日「飯高氏と近長谷寺」
  本居宣長記念館 吉田悦之氏 講演資料より)

寺院イメージ

真言宗山階派 丹生山「近長谷寺」

〒519-2176
三重県多気郡多気町長谷202