究極の選択、という言葉がある。

ゲイナー・サンガは今この時、実にタイムリーにその言葉の如き状況に立たされていた。
自分の部屋は元シベリア鉄道警備隊隊員、現高校教師のアデット・キスラーによって占領されている。
困り果てたゲイナーは誰かの部屋に泊めてもらおうと、かつてユニット内を延々彷徨った思い出がある。
結局最後に行き着いた場所は憎き宿敵、エクソダス請負人であるゲイン・ビジョウの住居だったのだが、
ここでとんでもない事態が発生した。
人生最大の厄災といっても過言ではない、ゲイナーは真剣にそう思っている。
そう、何がどうしてそういう事になったのか、今でも理由は分からない。けれどあの夜自分は確かに、

ゲインにお、
ゲインに犯さ、
お………駄目だ。

ここでどうしても思考は一時停止する。そもそも明らかにこれは授業中に考えるべき事では無いだろう。
比例するようにノートの紙面も真っ白だ。きっと今、自分の顔はとてつもなく不可解な表情を浮かべているに違いない。
実際、本当にもう、どんな表情をすればいいか分からないのだ。
あの後、心身共にダメージを受け、ベッドから起き上がれなかった数日間の事は実は余り覚えていない。否、思い出したくもない。
忙しくユニット各所を回っているのか、ゲインとはあれから顔を合わせていなかった。部屋に帰ってきた形跡はあるが、姿は見えない。
きっと余りの衝撃に、脳がゲインに関する全ての情報をシャットアウトし、彼の事を考える機能も停止してしまったのかもしれない。
都合のいい脳味噌がこの調子で過去をも造り直してくれやしないだろうかと願ってみるのだが、それは流石に有り得なかった。

(あー…、今晩どうしよう…)
ゲイナーを悩ませている目下最大の問題はそれ、である。
ようやくゲインの住居から逃げ出すように自分の部屋に戻ってきたのに、
数日見ない間、部屋はアデットが持ち込んだ様々な私物のせいでエライ事になっていた。
というかゲイナーの生活スペース自体が綺麗さっぱり失われていたのだ。

 『遠慮ってモンを知らないんですか貴女は!』
 『何をそんなに怒ってるんだ?何日も部屋を空けたお前が悪いんだろうが』
 『だからって僕の場所…うわ、狭ッ!』
 『仕方無いだろ?女は私物が多いんだよ。そんな事も分からないのかい?いいじゃないか一緒に住めば』
 『何でそうなるんですか!ここは僕の部屋ですよ!?』
 『既にあたしの部屋でもある』
 『…とにかく、今日中に荷物まとめて出てって下さい!』

(………頭痛いなぁ)
早朝のやりとりを思い出して、ゲイナーは頭を抱え込んでしまった。
おそらくアデットの事だ。絶対全く誓ってもいい、今頃自分の云った事などさっぱり忘れ去っているだろう。

自分の部屋に居場所は無い。
だけどゲインの部屋にも行きたくない。

究極の選択、というよりもむしろ八方塞がり状態に陥ってしまっているゲイナーを残し、
机上のノートは清々しく真っ白のまま、本日最後の授業終了を告げる鐘が緩慢に鳴り響いたのだった。



予想通り、自分の部屋改めアデットの部屋にゲイナーが居る場所は無かった。
むしろ朝の時よりスペースが狭くなっていたくらいである。故に必然的に宿探しとなる。
軽い夕食を済ませた後、脱力感に苛まれながら最低限の荷物をリュックに詰め込んで、あの日のように自分の部屋の扉を物悲しく閉めた。
が、以前バッハクロン内には仮眠室があるのだとベローに聞いた事を思い出し、自動的に身体はそちらの方向へと進む。
もう眠れるなら何処でもいい。藁にもすがる思いでバッハクロン内部に足を踏み入れた、その途端。
ドン、と全身を襲う衝撃。どうやら前方不注意で、中から出てきた何者かと正面衝突してしまったらしい。
 「ったぁ…」
 「…っと、大丈夫か?…ん?」
ぶつかった相手の声。
聴き覚えのあるそれに思わず身体が脊髄反射。
勢い良く背を向け、そのままそこを後にしようとする。
が、しかし。それよりも背負ったリュックごと、Tシャツの襟部分を掴まれる方が秒単位で早かった。
 「…うーっ…!」
 「これはこれは、誰かと思えば…人の顔を見た途端、じゃないか。
 人の顔も見ず逃げ出す失礼な輩は、ゲイナー・サンガ君ではありませんか」
首ねっこを軽く引っ張られて、正面を向かされる。
イヤミな言い方、人を小馬鹿にした慇懃無礼な口調、顔を見るのも憎たらしいゲイン・ビジョウが立っている。
 「何やってるんだ?こんな所で」
子どもの来るような所じゃないぞ。と、また神経を逆撫でするような事を付け加えてくれた上で、そんな質問をしてくる。
こんな男に答えるのも癪だが、妙な所で律儀なゲイナーは嫌々ではあるが、視線を右斜め下に外したままぼそりと呟いた。
 「…バッハクロンに仮眠室があるって聞いたから、借りようと思って…」
それを聞いたゲインが、泰然と腕を組む。
 「何でだ?」
 「だから、アデット先生が部屋を占拠しちゃった、から……」
フと、妙な既視感が沸き起こって言葉が途切れた。
確かこれは、この言葉は、以前にもゲインに云わなかっただろうか?だとしたら自分は物凄く馬鹿っぽくないか?
思わず顔を上げれば、矢張りゲインは可笑しそうに肩を震わせている。
 「…なっ、何笑ってるんですか!」
 「いや別に?というか、何で部屋を探してるんだお前は」
 「だから部屋に居られないんで…」
 「俺の部屋に来ればいいじゃないか」
あっさりと。
至極当然のように告げられた言葉の内容に、勿論ついていける筈も無かった。

 「…は?」
間の抜けた声で訊き返せば、ゲインはやれやれと組んでいた腕をほどいて、親指でゲイナーを指す。
 「だからお前の好きに使っていいって。どうせ俺は余り帰れない」
ようやく、ゲインの口の動きと、発せられた言葉と、その内容が理解出来た。瞬間叫んだ。
 「な、何云ってるんですか!…あ、あんな、あんな事しておいていけしゃあしゃあと…!」
何が俺の部屋に来いだ。何が好きに使っていいだ。
前々から知ってはいたけど、この男は何でこんなに無神経なんだ…!
 「あんな事?…あぁ」
記憶をたぐるように視線を泳がせ、その後一呼吸置いて、ゲインが意味深に笑った。信じられない、笑ったのだ。
 「その様子ならもう身体は大丈夫みたいだな」
 「………!」
自分に向けられる視線が、前とは少し違う。雰囲気が違う。
そんな気が、する。それを感じ取ったゲイナーは無意識に後ずさっていた。
 「あの時は悪かった。だがなゲイナー…」
 「もういいです!」
これ以上記憶を掘り返して欲しくなくて、言葉を遮った。
何か、違和感。
今までに無かった、この男に対する。それは何処か恐怖に似ている。
 「いいです…お気遣い有難うございました。でも部屋は結構ですから」
深くおじぎをして、その場を去ろうと踵を返した。とにかく早くこの場から離れたかった。
 「待てよ。アテはあるのか?」
 「…探します」
 「もう夜も遅いぞ」
背中にぶつかってくる声は常に正論だ。
痛い所を突いてきて、自分の計画性の無さを浮彫りにされるようで、キツくて。
相手にしてはいけない。分かっている。けれど我慢出来ず、とうとう後ろを振り返ってしまった。
こういうのを逆ギレっていうのかもしれない。もう一人の冷静な自分がそんな事を思う。
 「ほっといて下さい!…ってちょ…わあ!」
が、文句は途中失速。
一瞬何が起こったのか訳が分からなかった。
視界がぐるりと反転したかと思うと、やけに見晴らしが良くなった。そして腰にしっかりと巻かれた、太い腕。
俗に云う、俵持ちとかいうヤツだろうか。まさか自分が他人の肩に担がれる日が来ようとは。
そしてその他人が今一番逃げ出したい相手だなんて。余りにも神は情け容赦無いと思う。
 「わ、ちょ、ゲインさん…!降ろして!落ちる!」
 「騒ぐと本当に落ちるぞ」
恐ろしい事をサラリと自然に述べた後、ゲインはすたすたとバッハクロンを出た付近に備え付けてある発信機を、空いている方の手で取り外した。
 「ゲインだ。バッハクロン内部に猫が一匹侵入した。捕獲したんで逃がしに行ってくる」
猫って誰の事だ。
必死で脚をじたばたさせるがビクともしない。体力の差なんか歴然過ぎて、どうしたって敵う訳なんて無いけど。
 「…ってこのまま外に出る気ですか?!」
 「こうでもしないとお前逃げるだろう」
 「逃げますよ!離して下さいよ!降ろして!」
 「俺の部屋に着いたらな」
既に会話が成り立っているのかどうかも疑わしい。
が、ゲインは肩に担いだ人間の重量の負荷などまるで気にしないように、さっさと自分の住居ユニット目指して歩いていった。



遭遇。
確保。
拉致。

恐怖の三連コンボを喰らった後、広大な部屋の絨毯の上へ降ろされたゲイナーの顔は、見事なまでに蒼白い。
普段とは全く異なった視界のせいで軽く酔ったのも原因だけれど。
ゆっくりと降ろされた身体からは力が抜け、無力な両足はへなへなとその場に座り込んでしまう。
ゲインはゲイナーを降ろした後、自室代わりに使っている部屋に直行し、そして数分もしない内に戻ってきた。
すっとゲイナーの前に片膝を折って屈み込むと、掌の上に乗っているものを彼に見せる。
それは鈍く金色に光る、精密な造りの。
 「部屋の鍵のスペアだ。持っとけ」
 「…嫌です」
 「行く所が無いんだろう?」
親切なのか残酷なのか。人をからかってるのか、又は本気なのか。
未だぐらつく視界のせいで気分が悪く、考えるのも面倒だった。
 「…貴方の所には泊まりたくありません」
 「何故」
こちらの表情を憮然と窺っている男を、精一杯睨みつける。ギリ、と知らずに食い縛った歯が音を立てた。
 「…何故?それを貴方が訊くんですか?」
睨まれた男は、しかし微動だにせず、静かに口を開く。
 「あの時無理矢理抱いた事は、悪かったと思ってる」
瞬間。心臓が、相手に聴こえるんじゃないかと思うくらい大きく鳴った。
 「だが、お前を抱いた、という事に関しては悪いとは思ってない」
血液が全身を逆流?そんな事、作り話の中だけだと思っていたのに。
 「…な、に……?」
かすれた問い。
気付けば喉の奥がカラカラだった。
 「…あん、な…あんな酷い事しておいて…」
 「酷い事?あれだけ感じておいて?」
直前にゲイナーが呟いた言葉に巧みに似せて、ゲインもまた呟く。
じり、正面に座する男と距離が次第に近くなっているのは果たして気のせいだろうか。
ゆる、と相手の仄かに光る目に息を呑んだ。
笑っている。
 「…最低だ、」
腰を浮かした。気取られないように時間を掛けて体勢を立て直す。何時でも逃げ出せるように、手に脚に力を込めてゆく。
 「確かにやり方は最低だったかもしれない。だが俺が仕掛けたあの時、
 本気になれば逃げる事だって出来た筈だ。それなのにお前はそうしなかったじゃないか」
 「…っ、あんなの無理に決まってる……!」
あの時ベッドに。
シーツに押さえ付けられた強い腕の力は、忘れたくても忘れられない程強烈だった。
 「無理、ね。最初から無理だと決めつけていたのはお前だろ」
ぐ、
足の裏に力を込める。
いい加減、不毛で不愉快な会話を終了させる為、ゲイナーは立ち上がった拍子、素早く身を翻した。
背後でゲインが動く気配。それより早く、絨毯を蹴って部屋の出口へと走る。
あと10メートル、5メートル。近付く扉。品の良い白色で塗られたそれが、やけに遠く感じた。
ようやく扉に到達した手が勢いに任せてノブを捻るが、ビクともしない。
 「…?!」
一瞬頭の中が真っ白になった。何が起こったか分からず必死でノブを動かす。
ノブの下に取り付けられている扉のロック部分に気付き、それを上に押し戻すが、無情にも扉は沈黙したままだった。
解除されない。
どうして。
早く。
早くしないと。
早く。

 「一ついい事を教えてやろう」

時間切れを告げるその声と共に、白い扉とノブの前に大きな影が伸びた。
 「以前ここを使っていらした貴族のお偉方は、用心深い体質だったらしくてな」
脳内で警鐘が鳴り響いているのに、身体は凍りついたように動かなかった。
 「その扉、鍵を使うとご丁寧に内側から二重ロック出来るようになってるんだ」
一回り大きな掌が、ノブを握るゲイナーの手を音も無くそっと包み込む。

 「さっきのスペア、素直に受け取っておけば逃げられたんだがな…ゲイナー君?」



耳許に告げられる意地の悪い真実。
そして。
厳重に施錠されている扉の前に最早成す術も無く、ゲイナーは完全に逃げ道を失った。