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元禄6年(1693)波多瀬に生まれた元丈は、21歳で親戚の医師野呂三省の養子となり、京都で儒学・本草学を学びました。 その後幕府の採薬師として日光、箱根、富士山、白山、立山など薬草採取のために日本全国を訪ねます。 古来日本の薬物は中国・朝鮮の医方、薬草製薬によっていましたが、元文4年(1739)八代将軍吉宗のお抱え医師となった野呂元丈は、翌年青木昆陽と共に蘭学研究を命ぜられ、18世紀後半に芽生えた和蘭医方の基礎を成しました。 |
西暦
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年号
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年齢
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時 蹟
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1693
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元禄6年
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1
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12月20日、波多瀬に生まれる。 |
1712
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正徳2年
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20
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医師野呂三省の養子となる。この年上京し、医学を山脇道立、儒学を並河天民、本草学を稲生若水に学ぶ。 |
1719
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享保4年
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27
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養父野呂三省没す。帰郷し医業を継ぐ。 |
1720
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享保5年
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28
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丹羽正伯と箱根・日光・富士山方面の採薬を行う |
1721
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享保6年
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29
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夏井松玄・本賀徳運を伴い、伊勢・吉野・熊野方面の採薬を行う。その途次、帰郷する。 |
1722
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享保7年
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30
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白山・立山・妙高山に登る。丹羽正伯と佐渡に渡り、採薬を行う。 |
1723
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享保8年
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31
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初めて紀州藩主に謁見。 |
1724
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享保9年
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32
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曽我紹叔・中野道格と伊豆諸島の採薬を行う。 |
1725
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享保10年
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33
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江戸紀伊国橋袂の木挽町の宅地500坪(450坪ともいう)を拝領。 |
1726
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享保11年
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34
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実父高橋重英、実母寿椿没す。 |
1728
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享保13年
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36
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嫡子元順生まれる。 |
1730
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享保15年
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38
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再び丹羽正伯と佐渡に渡り、採薬を行う。 |
1736
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元文元年
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44
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『狂犬咬傷治方』成稿。 |
1739
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元文4年
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47
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御目見医師となる。 |
1741
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寛保元年
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49
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青木昆陽とともにオランダ語の習得を命じられる。 『阿蘭陀禽獣虫魚図和解』・『阿蘭陀本草和解』初編成稿。 |
1743
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寛保3年
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51
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オランダ商館長ヤコブ=ファン=デル=ワイエンからキセルとタバコを贈られる。この年、帰郷する。 |
1746
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延亨3年
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54
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元順を伴い、長門・石見方面の石薬調査を行う。その途次、帰郷する |
1747
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延亨4年
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55
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寄合医師(禄200俵)を拝命。漢方薬調製の労により、幕府から丹羽正伯に白銀5枚、元丈に3枚を賜る。養母珠山没す。 |
1748
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寛延元年
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56
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浅草東本願寺で朝鮮通信使一行と会談し、『朝鮮人筆談』を著す。松平大隈守邸で琉球人と会談する。 |
1752
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宝暦2年
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60
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『仏足石碑銘』刊行。 |
1755
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宝暦5年
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63
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病のため、箱根へ湯治に行く。 |
1756
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宝暦6年
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64
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病のため、箱根へ湯治に行く。その途次、帰郷する |
1760
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宝暦10年
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68
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秋ごろ重病となり、生前に泉岳寺へ墓碑を建立。自像に賛分を認める |
1761
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宝暦11年
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69
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7月4日没す。嫡子元順、家督を継ぐ。 |
1924
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大正13年
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正五位に叙される。 |