余りにも不確かで、疑いたくなる程曖昧なその感情は、
ある時突然名を変え発露し挙げ句全てを覆す。

当事者達をも飲み込んで。



manifestation of emotion.



 「…もういいって、突然怒って行っちゃったんですよ」

床に両膝をつき、窮屈そうにはいつくばった不自由な態勢から、
そこらじゅうにあちこち身体をぶつけつつ立ち上がったゲイナーは、釈然としない顔で眉を寄せそう云った。
服についた埃をぞんざいに払い落とし、手に持っているリストボードの下段の欄に確認済のチェックを入れながら。

 「訊いてきたのはサラの方なのに」

彼が立っている場所のすぐ傍で、放置され大分年月が経っているらしき風格の貯蔵庫から、
使えそうな工具やがらくた類を掘り出しては吟味していたゲインは、そんな少年の不満そうな声を相づち混じりに背中で聞いていた。
ガウリ隊を中心として定期的に行われるユニット内の倉庫チェックで、
サラと二人で食糧庫を担当する事になったゲイナーは内心嬉しくてたまらなかったのだが、
点検中に交わしていた会話がこじれ、起きた口論がきっかけで一方的にサラを怒らせてしまった。
他の倉庫を見てくるからと出ていった彼女を引き留める術も知恵も持たず、その後一人孤独に作業をしていたが、
別の仕事でここに来た請負人と運悪く倉庫内で遭遇してしまい、話をする内に何故か悩み相談めいた流れとなって、そして現在に至る。

 「何を訊いてきたんだ?」
 「僕のプレイしているオーバーマンアリーナ…オンラインゲームについてです」

ぶっきらぼうにそう答え、ゲイナーは中段に所狭しと置かれている缶詰を手に取り裏返すと、賞味期限の日付をリストに書き記していった。
単純で面倒くさいこの作業を、サラに逃げられてからずっと律儀にこなしていたゲイナーに対し、ゲインは同情と少しの可笑しみを禁じえない。

 「説明聞いて、面白そうだからやってみようかなって。
 彼女云ったんですけど、でもオーバーマンアリーナは中級から上級者向けだから」

実際のところ、彼の独り言めいた話し口調からはいまいち要領を得なかったのだが、
ここにきてようやく事の全貌がうっすらと見え始めてきて、男は背中合わせに作業をしていたゲイナーの方を振り返った。

 「やめとけって?云ったのか?」
 「はい」

すると相手は首だけを捻り、男の顔を見上げこっくりと真顔で頷いてみせる。

 「ばか」

呆れたように一言。そして軽いげんこつがゲイナーの頭にぶつかる。
なんでですか、と全然理解していない少年が手にしたリストボードで応戦しながら食い下がる。

 「彼女が不機嫌になったきっかけはお前が原因だよ」
 「だって、お金も絡むんですよ?初心者がプレイするには…」
 「じゃなくてだな……まぁいい」

思わず、素で云っているのか?と尋ねそうになったが、この生真面目な少年の事だ。
これが正真正銘素なのだろう。せっかく仲良くなるチャンスの芽を、自分から潰すなんて。
ネット上ではキングにまで昇りつめた無敵のチャンプだが、どうやら女心の方はさっぱりらしい。
ゲインは中途半端に言葉を切ると、以降何事も無かったように再び相手に背中を向けて、棚から埃だらけの錆びた工具を取り出した。
しかし言葉半ばで放り出されたゲイナーの方は、納得がいかない。

 「ちょっと、何なんですか。人の事ばかって云ったり、云いかけたら云いかけたで突然止めるし」
 「女心が分からないと、この先人生損するぞ、って事だ」
 「はあ…?」

やはり意味が分かっていないらしく、
思い切り眉を寄せ無意識に語尾上がりの声が口から出てしまったゲイナーだったが、
頭の中でゲインの云わんとする事がようやくつながったのか、狼狽を隠すようにごほんと咳払いをすると、
彼もまた相手にくるりと背を向け退屈な作業を続行した。

 「サラは、違いますよ。そういうんじゃありません…」

そのクセ小さな声でごにょごにょと云い訳めいた弁明を口にするのが可笑しくて、男は肩だけでこっそりと笑う。

 「別に恥ずかしがらなくたっていいじゃないか」
 「恥ずかしがってません!」

打てば響く。余りに素直な反応を惜しみなく返してくれる少年に男は笑いながら、
同時に胸の奥からひょっこりと顔を出し始めた困った悪戯心を隠せなくなっていた。
もっと相手の、様々な反応が見たい。そんな自分の大人げない欲求が次第に強くなっていく。

 「いいか?ゲイナー。好きな相手には直球でいけよ」

背後から聞こえてくる言葉に、缶詰を乱暴に棚の奥へと押し戻していたゲイナーの手が滑り、がつんと缶詰同士がぶつかり妙な音をたてる。
動揺を悟られまいと、そそくさとそれらを元の位置に直し、何も無かった風を装って上段の棚のチェックに取りかかった。
しかし棚が高すぎて、背伸びをしても目的の物になかなか手が届かない。ゲイナーは周囲を見回し梯子や台を探したが、
目当ての物は見つからず、諦めて再び足の爪先を立ててうんと背伸びをした。

 「接する時は常に愛情と親みを込めて、優しく。口説く時はスマートに」

しかしそれは結局徒労に終わってしまう。
背後、全く気配を感じさせず隣に立ったゲインが腕を伸ばし、
上段に並んでいる缶詰を一つ手に取ってゲイナーへと渡したからだ。

 「…ありがとう、ございます」

渡された金属のひやりとした重みを掌で感じながら、
ゲイナーは間近に接近した男に対して少しだけ警戒心を高めつつ礼を述べる。

 「お役に立てて光栄だ」

男はそう云って屈託無く笑うと、そっと少年の薄茶の頭に自分の大きな手を乗せた。
何か、おかしい。何か、変だ。
けれど温かな掌でくしゃくしゃと髪の毛をかき混ぜられる妙な心地よさも相まって、
考え過ぎかと全身に少しだけ張り巡らせていた緊張を解いた。しかしその油断を突かれ、
無防備になっていたゲイナーは腕を掴まれバランスを崩し、一気に相手の胸の中へと引きずり込まれてしまう。

 「う、わ…っあ!?」
 「だけど、少しくらい強引なのがちょうどいい」

耳許近くで降ってくる言葉を聴きながら、突然襲った出来事に思わず後ずさろうにも背後は棚だ。
前は男の身体で塞がれている。逃げ場を絶たれ途方に暮れてそろそろと顔を上げると、蒼碧色の両眸がこちらを見据えていた。
精悍な顔立ちに刻まれた、怖いくらい真っ直ぐで真剣な表情に思わずこくりと息を呑む。

 「…」
 「これは俺の胸の中だけにしまっておくつもりだったんだが」
 「……な、に云って…」

顔が近い。嫌でも力強い眼差しに捕まってしまう。
そんな非日常な至近距離に耐えられず、ゲイナーが先に視線を外した。
しかしそれを阻むようにゲインの両手が彼の頬をゆっくりと挟んで優しく包みこむ。
その拍子に、指先に触れていた眼鏡のフレームがカチャリ、と頼りなげな音をたてる。
深い碧に射竦められ、指先ひとつ動かせなくなった。

 「お前が好きだ」

一瞬、何を云われたのか理解出来なかった。
何度かまばたきを繰り返しても、正面に見える男の顔は変わる事無く、ずっと真剣だった。
おまえがすきだ。ゲイナーは思考停止に陥りかけている頭の中を揺り起こし、意味を必死で咀嚼しようとしたが、
それよりも次の言葉を用意していたゲインが、ゆっくりと口を開く方が早かった。

 「愛してる」
 「あ…」

い?
と口が形を作る前、絶妙のタイミングで男によって唇を塞がれたゲイナーは、頭の中が一気に蒸発したように感じた。
唇の表面を軽く浅く、触れてはついばむ。たったそれだけで簡単に膝から下の力が抜けた。
手の中できつく握りしめていた缶詰は、解けた指先からまっすぐ滑り落ち、床でガシャンと耳障りな音を生む。
何度もなぞられ、息苦しさに口を開けると冷たい空気と一緒に、生温い舌が侵入ってきた。抵抗なんて無意味だった。
生まれて初めて感じる他人の熱を体内に取り込んで、頬が、耳が灼ける程熱くなる。まるで自分のものではないみたいに。
これはキスで、多分一般的ではない少しだけ踏み込んだキスで。だけど自分達は男同士で、でもゲインは自分の事をすきであいしていて?
恋愛経験が浅く乏しいゲイナーでも、それくらいの知識は持っていた。しかし分からないのはゲインの行動と言動だった。

 「……っ、は…」

口腔内をたっぷりと蹂躙していた舌がようやく出ていく頃になると、そんな事を考える力すら無くしかけていた。
ゆっくりと、勿体ぶるように唇が離れる。ぴちゃ、と唾液のたてる音と重なる熱い吐息を感じながら、
眦に涙を浮かばせぼんやりと視線をさまよわせているゲイナーの目の前で、突然ゲインがパチンと指を鳴らした。

 「…と、まぁこんな感じだ。参考になったか?」

夢から現実へ、まるで催眠術を解くようにはっきりとした声でそう云うと、
男は腕の中に閉じこめていた身体をゆっくり離すと、事も無げにいつもの笑顔を瞳に浮かべる。
必要以上に優しくない、けれど突き放しもしないそんな笑みを。
しかし彼から解放されたゲイナーは、糸が切れたようにその場にへたへたと座り込んでしまった。

 「な…………な、…」

くたりと冷たい床に座り込んだまま口の中でしきりに何か呟いているのだが、それは全く言葉として成立していない。
なんて事するんだあんたは!
飛んでくるであろう拳と共にそんな反応を予想したゲインは思わず身構えるが、
いつまで経っても訪れないその時に、流石にやり過ぎたかと彼の前に同じようにしゃがみ込んで顔を覗くと、
ゲイナーは相変わらず何か喋りたそうに唇を小さく震わせていた。髪に隠れて耳は見えない。
けれどきっと耳まで鮮やかに赤く染まっているのだろう。仕掛けた本人さえ予測出来なかった、そんな思いきり紅潮した顔で。

 「…本気にしたか?」
 「そんな訳ないでしょ!」

ようやく我に返ったのか、感触を消し去りたくてごしごしと服の袖で唇を拭っていたゲイナーに声を掛けた途端、
速攻で明白で嘘つきな返事が勢い良く戻ってくる。

 「だけど、…す、すきだ、…とか…あいして、るとか…!」

拭っていた方の手が止まり、ぱたりと床に力無く落ちる。
感情に任せて続けたら裏返って変な声が出た。どうしてか、心臓が先程からずっと大きく鳴りっぱなしだった。
ゲインの瞳が驚いている。自分だって驚いている。この劇的な変化に。愛しているという言葉、嘘みたいな優しいキス。
なんでゲインが、どうして自分に。

 「キス、とか…!そういう…なんで、…そんなの、ずるいじゃないですか」

自分で口走りながらゲイナーは訳が分からなくなっていた。
ゲインの言葉で頭の中は蒸発した。ゲインのキスで思考力は失われた。もう、感情しか残っていなかった。

 「ずるいですよ、ずるい。チェックだってぜ、全然済んでないのに…それなのに、こんな…めちゃくちゃにして」

相手への非難と倉庫チェックの不満が混ざり合ってぶつかって、一人で怒ってもう支離滅裂だ。
途端ゲイナーは、今まで口から出してしまったみっともなく情けない言葉を全て回収したくて泣きたくなった。
顔を上げると、複雑な表情を浮かべているゲインと目が合った。先程のような真剣な眼差しでは無く、
難しい事を考えるような、それでいて微かに笑いを堪えているような妙な表情だった。

 「本気にしたんだな?」
 「だから、違う…って…」

何を口にしても、彼に余すところなく見せてしまっている素直なリアクションと表情によって、
否定の言葉が全く無意味になっている事を、ゲイナーは知らない。
云い終わらない内に指で顎先をひょいと持ち上げられ、再び唐突に唇を塞がれる。
一方的で、乱暴で、先程とは全く違う種類の、けれどはっきりと熱が伝わってくる、そんな直接的なキスだった。
感情だけ残った身体は、素直にじっと甘い痺れを伴うそれを受け入れる。きっとこのまま感情もまるごと奪われてしまうのだと思った。
この男に、自分の全部を。

もう遅い。

キスの合間を縫って、そんな言葉が聴こえた。
ゲイナーは、返事の代わりに覆いかぶさる白いコートの襟元を、きつく握りしめた。

 

 

 

◆end◆

ハッピーエンド的な。