あの時感じた怒りは確かに正当なものだと思っている。
のだけれど、そう真正面から云い切ってしまうには心の何処かで抵抗がある。
それは多分、自分の感情を強く揺らした人物が、よりにもよってあの請負人だったからだ。
It's not good only lovelily.
デッキでは、買い付けてきた部品を前にメカニック達が集まって賑やかに話し合いを繰り広げている。
修理したい機体の数と今回手に入れたパーツが明らかに反比例している為、優先して直す機体を選別しているのだろう。
余りの収穫の無さに、バッハクロンへ戻ってきた後はコナ達から文句を云われ放題だったゲイナー達買い付け組だったが、
こちらとしてはあわやゲインがロンドン送りになるところを必死で阻止していたのだ。
正直のんびり買い物などする状況では無かった、という状況もきちんと加味しておいて欲しい。
ともあれ後の事はメカニックとガウリ隊に任せ、ゲイナーはガチコから自分の荷物を取り出すと、
そのままデッキの奥に位置する、普段男性メカニック達が使用しているシャワー室へと足を運んだ。
サラを救出しに行く際、服は手早くガウリ隊のものに着替えたが、未だ顔の方は女性用のメイクをしたままという状態なのだ。
デッキで散々ベローにからかわれ、アナ姫には可愛いですねと微笑まれ、さすがに居心地が悪くなった頃、
自室から戻ってきたサラがこれ使いなさい、とメイク落としと洗顔用品一式を貸してくれた。
扉を開けると、誰かが先にシャワーを使っているらしく、水音と微かな湯気が漏れている。
しかしゲイナーは反対側に備え付けられている洗面台さえ使用出来れば十分なので、
遮られたぶ厚い防水カーテンに背を向けると持ってきた荷物を置いた。その時、偶然床に置かれた脱衣籠が視界に入り、
そこに放り込まれている見慣れた衣服を見た少年の口角が、条件反射のように下がる。ゲインだ。
そういえば、極寒の中列車に長時間拘束された所為で全身冷凍されたみたいだ、と話していた事を思い出す。
気づけば何やら調子の外れた鼻歌のようなものも聴こえてくる。出直そうか、と頭が俊巡するより早く、
両手が勝手に荷物を再び持ち上げた時、不意に歌は止み、背中越し、ぶ厚いカーテンの端がいきなり開けられた。
「うわっ」
「お。なんだお前か」
後ろを振り返れば、途端に眼鏡のレンズがあっという間に湯気で曇る。
眉を顰めて眼鏡を外すと、淡くぼやけた視界には、カーテンの隙間から顔だけを覗かせたずぶ濡れのゲインが、
どこのお嬢さんかと思ったぞ、などと余計な事を云いながら笑っていた。どうやらまだその話題を引っ張るつもりらしい。
「いい加減しつこいですよ」
軽口を無視して冷ややかに云い放つ。
しかしゲインは懲りずに、今度は隙間から水滴を浮かべた腕をこちらへと伸ばしてくる。
「…何なんですか」
ゲイナーが目一杯不審そうな表情で浅黒い腕を睨みつけた。
この男はどうしても自分をからかわずにはいられない。それはもう今までの付き合いで十二分に理解している。
顔を合わすとこうなる事が分かっていたから、会いたくなかったのに。
「タオル。あと服」
ひらひらと揺れる掌から一方的に注文を受けたゲイナーが、
目的のものを脱衣籠ごと乱暴にカーテンへ押しやると、腕は引っ込み同時にすまないな、と暢気な声が返ってきた。
はあ、と小さなため息を吐いた後、ゲイナーも諦めて荷物を洗面台の傍へ置き直しガウリ隊のコートを脱ぐ。
ここまできたならもう、さっさと化粧を落としてしまおう。サラから借りたメイク落としのチューブを掴み、
裏面に掲載されている使い方にまじまじ目を通していると、再び後ろでゲインの声がした。
「今日は最後までお前に助けられっぱなしだったな」
ぱちん、とキャップを外し、掌に白いクリームを落としながらゲイナーが応じる。
「云ったでしょ。あんたには返さないといけない借りがあるって。それに、実際助けたのはガウリさんです」
「ガウリはお前の言葉が無ければ動かなかったってさ」
その言葉に、クリームを指に滑らせていたゲイナーの手がぴたりと止まる。
頭の片隅に蘇ったのは数時間前に交わしたやりとり、そして苦い記憶だった。
あの時ガウリは確かにゲインを切り捨てようとした。言葉の端々から滲むそれに、
彼やヤーパン達に対するゲイナーの嫌悪感はこれ以上無く強くなったのだ。
いくら中央政府が退くといっても、ここでエクソダス請負人を犠牲にしてはこの先エクソダスの旅など到底不可能だし、
本末転倒にも程があると思った。それ以上に、なにより自分とキングゲイナー、そしてゲインを秤に掛けている事が許せなかった。
「…僕はただ、エクソダスで犠牲を出したくなかっただけで」
掌で溶ける白い液体に視線を落としそう呟いて、ゲイナーはそっと口をつぐんだ。
互いの間に生まれた小さな沈黙。それを先に破ったのは着替えを終えて出てきたゲインだった。
水を吸った深緑の髪は普段よりも幾分勢いを失ってはいるが、相変わらず束を作り四方八方に緩く跳ねている。
チャプスとブーツだけを身に纏い、上半身は未だ裸のままタオルを首に掛け出てきた男はゲイナーの姿を見ると、
突然彼の顎の先を指でひょいと持ち上げ、不思議そうに軽く首を捻った。
「なんでお前がそんな神妙な顔してるんだ」
「べ、別に…」
指摘され、慌てて顔を離すとゲイナーは手の動きを再開させる。
クリーム状だったそれは掌の中でどんどん泡立って、そういえば泡立てずに肌に馴染ませるんだっけ。と気づいた時にはもう遅かった。
「ガウリに何を云われたか知らないが、余り気にするなよ。
あいつもあいつの役割がある。立場が逆なら俺でも、そうしたかもしれない」
さりげない口調へ忍ばせたフォローに、請負人の聡さを感じた。
そんなに自分の感情は露骨に顔へと出ていたのだろうか。ゲイナーはなんだか居たたまれない気持ちになってしまう。
こういう時に感じるのが、ゲインと自分の経験値の差だ。全て納得ずくで仕事と割り切り動く大人と、
私情に左右されてただ不満を口に出すだけの子ども。生きてきた長さが異なるのだから較べる事など無意味だと理解はしている。
それなのに、何かあるたび引っ掛かるのだ。ゲインの存在が、自分の胸の奥底、封で塞いだ本音の部分に。
「そりゃ…分かってる、つもりなんですけど。…実際云われるとやっぱり気分は良くなかったから」
エクソダスの為と割り切るには、主義者に両親を奪われたゲイナーの傷は深かった。
ガウリの言葉で、忘れた痛みが疼いてしまった。次第に暗く厭な方向へと意識がゆっくり傾きかかった時、
不意に隣で、そうだな。と相槌をうつゲインの静かな声が聴こえた。
「だが俺は助かった。お前と、ガウリの手で。犠牲を出さずにな」
顔を上げる。腕を組んだゲインがこちらを見て穏やかに笑っている。
それで十分だ。あっさりと簡潔に云い切られたそんな言葉に、不覚にも心が緩む。
そして、漣のように起きたそんな心の微かな変化に驚いたのも、ゲイナー自身だった。
きっと今日は色々な出来事が怒濤のように起こったから、自分も疲れて妙に殊勝になっているのだ。そうに違いない。
ゲイナーは何故か焦って言い訳を探して、揺れて拡がる心の波紋を打ち消そうとする。
そんな彼の心境を知ってか知らずか隣に立つゲインが、おいゲイナー、とのんびり口を開いた。
「こぼれてるぞ」
「え?……あ」
指を差された方向に目を遣ると、肌に軽く馴染ませるだけで良かった白いクリームは、
ゲイナーの両手の中で細やかな泡となり端からぽたぽたと溢れている。これはやり直しだ、
そう思い洗面台の蛇口を捻ろうとするが、泡で滑って上手くいかない。見兼ねたゲインが腕を伸ばしかけたが、
何を思ったのかふと指が蛇口の前で停止する。
「忘れてた」
そう聴こえた、ような気がしたが、
耳の端で拾った小さな呟きを相手に確認するより早く、蛇口から向きを変えた男の手が頬を包み込むように触れた。
ふわりと鼻を掠めた湯上がりの匂いと温かな皮膚の温度に一瞬気を取られた瞬間、軽く顔を上向かされゲイナーの唇に別の感触が重なる。
「…ッ?!」
何が起きたか分からなかった。
文句を云おうにも発信元の口は塞がれてしまっていて、泡だらけの両手は宙に浮いたまま身体は固まり動かない。
キスをされている。ゲインに。ゲインに?自分を襲った突然の行為に頭がようやく追いついた頃、重ねられていたゲインの口が離れていった。
離れていく前に引き結んでいた唇を軽く舌で舐められて、首の後ろがぞくりと粟立つ。
「まだ貰ってなかったからな」
云いながら、屈めた身体を元に戻したゲインは、
すぐ傍で茫然と自分を見上げているゲイナーの顔を楽しそうに眺めている。
まるで仕掛けた悪戯が成功したような表情だ。
「………は?」
「キャサリンからの熱〜い口づけ」
そのわざとらしく抑揚をつけた口調は、
闘技大会でリングに上がったブカレスが自分にキスを投げながら云い放っていたものそっくりで、
彼の言葉に心当たりのあったゲイナーは思わず脱力し、そして怒った。
「あ………あんたねえ…!」
まさかそちらの話題も未だ引っ張られていたなんて。
確かにあの時告げられた。熱いキスは試合の後に取っておくと。
だけどそれは周囲の敵を欺く為で。それでも唇の端はしっかりと掠められてしまったのだ。それなのに。いやそもそも。
「結局試合に負けたじゃないですか!」
「じゃあ救出の礼」
「いりませんよ!!」
烈火の如く怒り出したゲイナーの攻撃を背中で笑って受け流しながら、
ゲインはさっさと出口の方へ行ってしまう。云いたい事だけ云って、やりたい事だけやって、
本当に、なんて勝手な奴なんだと真剣に腹が立つ。そして、そんな男にまんまと振り回されている自分にも。
揺れた心は元に戻らず、受けた言葉と行動は痕のように剥がれない。
迷惑だと思っているのに、意識は自然そちらに向かってしまう。あの男の許へ。
釈然としない。納得出来ない。それなのに。
ゲイナーは、泡がついていない手の甲で唇を乱暴に拭った。
けれどまだ鮮明に残っている感触を、撫でられた舌の柔らかさを、忘れる事は難しかった。
◆end◆
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揺れに揺れる。