なんとなく、予感はしていた。
覚悟、といった方が正しいのかもしれない。
朝、目覚めたらゲイナーと、彼の愛機であるキングゲイナーが居なくなっているという知らせを、
青ざめたベローから聞いて、ああ、そうか。と、混乱するでも哀しむでも無く何故かすとんと胸の奥で納得をした。
北の果てから豊饒の地ヤーパンへと到着した当初、ガウリ隊や有志の皆で作ったおんぼろの集合住宅のような家。
今にも屋根が傾きそうなそこの一室を、自分と同じように使用していた彼の部屋は、
訪れてみるとまるで物盗りが侵入した後のように様々なものが様々な場所に散らかっていた。
その光景を目にしたサラは、奇妙な納得をしながらも寝起きの頭を叱咤して思考を正常に働かせ始める。
昨日、たっぷりと日が暮れた頃、人知れずガウリが云ったのだ。ゲイン・ビジョウが戻って来たと。
にわかには信じられなかった。自分は今日一度も彼の姿を目にしていないし、他の親しい仲間達もまた同様だったからだ。
どうしてこちらに顔を出さないの?と訊けば、今回は秘密裏に来ているのだとガウリは少しだけ苦い顔をした。
仕事を請け負い成功させたエクソダスだと云うのに、どうやらおおっぴらには動けない理由がいくつもあるらしい。
彼の事だから、単に足どりを掴まれるのが嫌なだけなのかもしれないけれど。
懐かしい名前に思わず胸が高鳴った。それなのに同じくらい、云い知れぬ不安が綯い交ぜになってしまう。
素直に喜ぶふりをして、本当はゲイナーの事ばかりを考えていた。
ゲイナー。夕食の時間が過ぎても席は空いたままで、未だ帰ってくる気配は無い。畑の作物を収穫するにしては時間が掛かりすぎていた。
サラは残ったおかずを別の容器に移し替えながら、薄い紫から濃い藍色へ染まる窓に視線を向けた。
ゲインが、戻ってきた。ゲイナーは、知っているのだろうか?
早朝の、優しく淡い光が細い筋となって差し込む室内に、ゆっくり足を踏み入れる。
何度も入った事のあるここは見知った場所である筈なのに、
主の姿がぽっかりと無くなった今日は何故だかひどくよそよそしく迎えられた気がした。
ぐるりと周囲を見渡せば、飛び出したタンスの引き出し、閉め忘れたクローゼット、
無惨に倒れたゴミ箱と、床に散乱する衣類や小物。荷物をきちんとまとめる時間も無かったのだろう、
必要最低限のものだけを急いで持っていったのか、まるで夜逃げのようだ、とサラは思う。実際夜逃げだ。
自分達の知らぬ間に、全てを置いて出ていった。置いて行かれた方がどんな気持ちになるのか、知らない筈は無いだろうに。
あの時、ゲインがヤーパンから発った後に見せたゲイナーの表情は、きっと忘れられないと思う。
そんな表情を、今自分もしているのだろうか。
結局、昨日の夜からゲイナーの姿を見る事は叶わなかったし、こちらに戻って来ていたらしいゲインも同様だった。
ガウリの言葉を聞いてからずっと胸を占めていた予感は、いよいよ確信へと変わった。
どうして。と思う気持ちも無い訳ではない。どうして何も云わずに出ていったの。
けれどそうやって責めて泣く権利はサラの中で既に失効していたし、
そんな期間は自分とゲイナーの間でとうに過ぎ去ってしまっていた。
つき合うまでとても時間が掛かったけれど、終わるまではあっけない程早かった。
愛情が無くなったのではなく、自分達が一番互いを大事にし、素直になれる距離が「いいお友達」という関係だったのだ。
愛や恋に浮かされるには、ゲイナーという相手はサラにとって少し齟齬が生じる。
長い間一緒に居て、少なからず互いを傷つけ合った結果、ようやく分かった事だった。だけど。
部屋の中、散らかった物を踏まないように気をつけて歩きながら、
サラはがらんとした空のベッド、白いリネンのシーツの上に指先を滑らせる。
だけど、肉親に近いくらい、それ以上に大切だったのも、本当だったのに。
もう忘れたよ。
未練なんてたっぷりの顔でそう云ったゲイナーを思い出す。
あいつなんて知らない、どこかでのたれ死んでるに違いない。だから僕には関係ないんだ。
誰かが請負人の、ゲインの事に触れると眉を寄せてそう返していたゲイナー。
苦々しく、まるで自分の言葉にこそ身を切られるような彼を見るたび、可哀相で、けれど馬鹿だなぁとも思った。
寂しいなら、悔しいのなら正直にそう云えばいいのに。あなたが一番虚勢を張りたい相手は、もうここには居ないのに。
男の人って皆そういうものなのか、とその時は余り気に掛けなかったけれど、今なら理解る。皆がそうなんじゃない。
ゲインとゲイナー、きっと、あの二人だったからだ。
彼らが自分に何かを話した訳では無い。だから全ては分からない。
けれど、二人の間に横たわる関係性は、深く、そして強く、自分には思いも寄らぬ形をしているのだろう。
机の前に立ち、カーテンを左右に引き上げ、そして正面の窓を開け放つ。
とたんに明るく、白に支配される視界。漏れる光は秋晴れで、風の無い良い日だった。
ふと、木製の机上、焦げ茶色のそこを切り取るように載せられた白い紙に視線が落ちる。
傍に置かれたノートから乱暴に破り取ったのか、片端が少し変形したり、ちぎれて無くなっていたりした。
そっと、その紙を持ち上げる。そこには見慣れたゲイナーの文字が並んでいた。
視線を端から端まで動かせば、読み終えてしまう程の短い文章。
けれど、旅立つ直前、時間の無い中で必死に考え書いたのだろう、へたくそな彼の言葉。
サラ。
急でごめん。
ゲインと行きます。
目で追った文字の羅列がようやく自分の中で意味を成し、
きちんと全身を巡り始めた頃、サラは小さく息をついた。
弁解も言い訳も無く、たったそれだけを記した紙面は、簡潔でいっそすがすがしい程だ。
戻ってくるとも待っていて欲しいとも書かれていないのは、ある意味彼なりの誠実さなのだと思う。
守れるかどうかも分からない約束で縛るのは、する方もされる方も、一番苦しいから。
「ゲインと、ね」
忘れるなんて云って、一番彼との思い出に捕らわれていたのはゲイナー自身だった。
ヤーパンで何年も生活をし、どれだけこの土地に馴染んでいっても、
彼の瞳はいつも遠くの別の場所を映し続けていたのを、一番近くに居た自分がなにより知っている。
エクソダスを、何かが変わる事をあれほど嫌っていたのに、結果一番外の世界に惹かれたのも、ゲイナーだったのかもしれない。
そしてそれはきっと、あの請負人の存在があったからだ。顔を見れば反発していた、なのにたやすく凍った心を溶かしてみせた。
自分とは別のベクトルで、きっと彼を想っていたゲイン。
朝になって、居なくなって、どうしてあんなにすんなりと納得してしまったのか、サラはようやく少し分かった気がする。
誰の目にも触れず、秘密裏にヤーパンへ来たのだというゲインの目的は、きっとそんなゲイナーを連れていく事だったのだろう。
吹雪に閉ざされ、閉塞しきった世界から、無理矢理連れ出したあの頃のように。
「行けばいいわ、どこへだって」
動き出してしまったのなら、もう止められない。
かつてエクソダスを経験した自分は、その事を身に染みて知っているから。
彼らが共に行くのなら好きにすればいい。
そう思う反面で、突然の出立を手放しに喜んであげられない程には、本当はまだ少し複雑なのだけど。
ゆっくりと息を吸い込む。
伸びた薄桃色の髪が風に舞って頬に触れ、窓から差し込む太陽の眩しさに、サラは目を細める。
見送る時間が無くて良かった。そんな暇を与えなかったゲインを少しだけ恨めしくも思ったけれど、こういう別離の方がいいのだ。
潔く、鮮やかに。カーテンの白がたなびく窓枠に両手を掛け、きっぱりと青い空を見上げながら、サラは思う。
今日は彼の好きだった、炊き込みご飯を作ろう。
◆end◆
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良い旅を。