29.
降り続いていた冷たい雨は、陽が落ちるにつれ雪混じりとなり、そして日付が変わる頃には全てを白く覆いつくした。
時期柄か場所柄なのか知らんが相当ふっかけられたな、とその割にはやけに気楽な様子で薄暗い部屋に入ってきたゲインは、
一人さっさと床についている相棒を見つけると、軽く眉を上げてベッドに近づいた。
「お前の交渉下手は致命的だぞ。少しは相手を疑えよ」
「……なら最初からあなたがやって下さいよ」
薄っぺらい掛け布の中に防寒措置として挟まれている毛布をかいくぐり、
そこからごそりと目の辺りだけを覗かせると、ゲイナーは潤んだ茶色の瞳を怠そうに細める。
体調は最悪だった。国境を越え、新たなドームポリスに足を踏み入れる頃になると、何故かゲイナーは高い頻度で熱を出し体調を一気に崩す。
長い長い旅の繰り返しで、野宿にもある程度慣れたのに、こうして目に見えて場所や環境がガラリと変わると、途端に身体がついていかなくなる。
そしてその結果、今まで体内に蓄積されていた見えない疲労と結託し、それは高熱となって彼を蝕み動けなくさせるが、
何もせずただひたすら眠り続けると、数日も経たずに熱は引き、嘘のように楽になる。
自分の体調の所為で足止めをくってしまうこの不可解な現象をゲイナーはひどく厭うていたが、
熱を出す事によって、彼はこの状況と折り合いをつけているのだとゲインは考えていた。
彼なりの、未踏の土地に順応する方法。
特異で厄介な体質だとは思うが、ある意味とても彼らしいとゲインなどは少しだけ好ましく思う。
余裕の無い逼迫した状況時に倒れられるよりは、こちらの方がずっといい。
「それじゃあお前の為にならんだろうが」
「……いくらまで下げたんです?」
「200」
向かいのベッドに腰掛けながらゲインは得意気に二本指を立てると、
ゲイナーは一際大きく目を見開いて、その後もぞもぞと頭の先まで掛け布を被って横を向いてしまった。
「…信じられない…云い値の半分以下じゃないか……」
悔しそうな声が布越しにくぐもって聴こえてくる。
この場末の宿屋は、ドームポリスに着いた際、ゲインが手ごろな宿をと街の女達から場所を聞き出したものだったが、
直接交渉にあたったのはゲイナーだった。しかし既に体調の芳しくなかった彼は、面倒な値段交渉もそこそこに、
半ば宿の主人に提示された通りの金額で泊まろうとしていたのだが、承諾のサインを書き入れる直前、
交渉の様子を見に戻って来たゲインに、お前は先に上がって寝てろと無理矢理交代を云い渡されたのだ。
この地域を統治するドームポリス周辺の基本的な物価はある程度頭に入れておいた筈なのに、
全く役に立っていないところを見ると、確かに自分の交渉下手は、彼の云う通り相当致命的なのかもしれない。
熱に浮かされた頭で珍しく殊勝に落ち込んでいると、すぐ傍でばさりとコートを翻すような衣擦れの音が聴こえた。
「ゲイナー、お前のコート借りるぞ」
「…お好きにどうぞ。あれ、修繕出来そうなんですか?」
「あぁ、さっき店に預けてきた。防弾部分総入れ替えだ」
普段着ているゲインのコートは、ここに来る前、国境を渡ってすぐに被弾し使い物にならなくなっていた。
以前居た場所よりも随分南下した為、この辺りの気候は比較的穏やかだった。
とはいえ、12月も中旬を過ぎ当たり前のように雪が降る地域だったから、
暖かけりゃいいとゲインは半ばぼろきれのようになったコートを着ていたのだ。
自分の発する熱の暑さに耐えきれず、ゲイナーが掛け布から紅潮した顔を出すと、薄暗い照明の下で白くぶ厚いコートを着たゲインが立っていた。
以前彼が着ていたものをゲイナーが譲り受けたので、元々の持ち主はゲインではあるのだが、ゲイナーは男の姿にぼんやりと見入ってしまう。
何年も時を遡り、彼がこれを着て請負人をしていた頃の、もうずっと前のエクソダスを思い出した。
あの頃より随分髪も伸びたし、あの頃には無かった傷もいくらか増えた。それなのに、コートひとつでこんなに。
「じゃあ大人しくしてろよ」
「あ…はい。あの人達によろしく」
「あの人?」
「行くんでしょ?ここを教えてくれた“ご婦人”の皆さんのトコロに」
ゲインの口角が少しだけ下がった。図星だ。
女性に関しては常に許容範囲の広い男だったが、請負人という職業柄街の裏事情を聞きコンタクトを頻繁に取る所為か、
ゲインはやたらそういう類の女達にもてた。彼女達のあしらい方や口説き方を、彼の傍に居るゲイナーも少なからず見てきているが、
ゲインは一体どこからそんな言葉を探してくるんだというような大袈裟な甘い台詞を惜しげなく使う。
しかしそれが抜群に効くのだから、女性というのは本当に謎だ。
どちらにしても別段興味は無かったから、ゲイナーは気をつけてとおざなりにそれだけ告げて、
掛けっぱなしだった眼鏡を外すと、のろのろとベッド脇の棚に置いた。
いくら熱と疲労で身体がつらかったとはいえ、今まで掛けていた事も忘れていたとは朦朧とするにも程がある。
そんな事を考えるともなく考えていると、耳がぼわぼわと響く奇妙な言葉を捉えた。
「寂しいなら居てやるぞ」
顔を上げると、ぼやけて不明瞭な視界の中、
戸口に立っているゲインが昔のように両手を白いコートのポケットに突っ込んでこちらを見ていた。
多分、彼は笑っている。いつもの、人を喰ったような表情で。
「…遠慮しますよ。余計熱を上げるような事はしたくないんで」
それはきっといつものからかい混じりの言葉で、そういう意味で云った訳では無い事をゲイナー自身承知していたのだが、
そういう意味でしか返せない、疲れてひどく投げやりな自分に少しだけ嫌気が差した。おそらくゲインも分かっているのだろう、
ゲイナーに手厳しく断られた後、ひょいと微かに肩を竦めると笑みを含んだ口調で相変わらず可愛くない奴だ、としみじみ呟いた。
高熱を伴った曖昧な眠気は何度もゲイナーを覚醒させては、再び泥のような睡魔に身を投じさせる。
最初に目覚めた時は全身に纏わりつくような暑さで、そして次は全身を覆うような寒さで目が覚めた。
体温調節機能が馬鹿になっている。身体の内側から断続的に襲い来る寒気に、背を丸め唇を噛みしめて耐えながら目を閉じた。
こんな時に見る夢は、やたら過去の出来事が混ざり合って虚構を築く。
まとまりが無く整合性に欠けるそれは、フィルターを一枚掛けたような曖昧な色で、今まで旅した世界を朦朧とした頭に映し出した。
雨ばかり降る土地、緑に覆われた土地、人よりも動物の方が多い土地、逆に近代的な建物ばかりで何も見えない中央都市、
見渡す限りの熱砂、そして、田園風景が続く豊饒の地。様々な場所を旅して、色々な景色を瞳に焼き付けてきた筈なのに、
何故か今夜は雪と氷に閉ざされた、自分の生まれたドームポリスばかり思い出した。原因は、何となく分かっている。
ゲインの懐かしいあのコート姿に、記憶がごちゃごちゃと必要以上に喚起されているのだ。
エクソダスが嫌いで、請負人なんてもっと嫌いで、それなのに今、大嫌いだった請負人の片棒を担ぎこんな世界の端まで来てしまっている。
あの頃の、全てを拒絶し引きこもっていた高校生の自分が現在の自分を見たら、きっと驚き絶対に信じないだろう。
人生なんて本当に、どんな方向にどう転ぶか、自分でもさっぱり分からない。分からないけれど、自分が選び取った現在に悔いは無いと思う。
外に出て、知った事がたくさんあった。知りたくなかった事もきっと同じくらい。
それらを含めたとしても、ゲイナーはそう思っているのに、熱っぽい瞼の裏に浮かぶのは、あの白い吹雪だった。
懐かしい?帰りたい?
違う。雪に閉ざされた夢の中でゲイナーは首を振る。
だって。
夜営の準備をする男の広い背中が唐突に浮かんで消えた。俺は戻れない。
違いますよと否定した。星空の下で、戻れないんじゃなくて戻らないんだ。あの夜自分はそう告げた。
だって、帰る場所は。
パサ、と、突然頬のあたりに柔らかな風が触れた。
その感触に現実へと引き戻されたゲイナーが、とろとろと重たい瞼を上げると、
照明を落としたままの部屋に、いつ帰ってきたのだろうか、ゲインの黒い姿があった。
何度かまばたきを繰り返し瞳を暗順応させると、男は傍で雪に濡れた白いコートを脱ぎながら起こしたか?と小さく訊いた。
答えようと少しだけ上体を動かし掛けて、頬のすぐ近く、枕許に何か小さな物体が置いてある事に気づく。
手に取ってよく見ると、それは小さな赤い長靴だった。中にささやかなお菓子の入っている、この季節特有の。
「…なんですか、これ」
「ご婦人達からの見舞い品だ。クリスマス、一人寂しく寝込んでるゲイナー君に」
云いながらコートを暖房のよくあたる長椅子に引っかけ、代わりに愛銃を手にしたゲインは、
再びベッドに戻り備え付けのライトを弱く灯すとそのままそこに腰を下ろす。しかし、正面に座り、
銃のメンテナンスを開始した男をぼんやりと眺めながら、ゲイナーは買ったんでしょ、売れ残り。と呟いた。
「貰ったんだよ」
作業する指先を止めず、視線はライフルにとどめたままで、ゲインは返す。
わざと視線を外すのは、ついた嘘を悟られたくない時だ。バレてもいいような嘘はそれこそ目を見て真顔でつく、そういう男だ。
その割には全然香水の匂い、させてないじゃないですか。頭の中で組み立てた言葉は、けれど口に出さずに止めておいた。
興が乗らなかったのか何なのか理由は分からないが、先程からふわりと鼻を掠めるのは女性の甘いそれでは無く、酒の芳香だった。
おそらくあの後、酒場で適当に時間を潰してきたのだろう。
そんな事が分かってしまう程長く深いつき合いなのか、といえばそれは少し違う。
ゲインは女の残り香をべたべたと纏わせたままで、ゲイナーを抱く事が多くあった。過去も、そして今もそれは変わらない。
そういう事を何度も繰り返されれば嫌でも判断力はついてしまう。思うにゲインはその辺りのデリカシーとモラルが少し変なのだ。
そんな変な男につき合ってしまう自分も、きっと人の事は云えないのだろうけど。
「…にしたって…どれだけ子ども扱いなんですか僕は」
こんな物を貰う年齢などとっくの昔に越えてしまった。
今では見る事すら稀だ。というよりも久しぶりに見た。ゲイナーはまじまじと、物珍しそうに可愛らしく小さな長靴に注目する。
「交渉をパーフェクトに纏められんうちは、まだまだお子様だろう?」
ゲインが銃に視線を落としながら楽しそうに云う。どうやらまだ根に持っているらしい。
先程の事を思い出し微かに居心地が悪くなってしまったゲイナーは、しかし毛布にくるまったまま懲りずに云い返した。
「今時子どもでも喜びませんよ」
「その割にはえらく食いつきがいいじゃないか」
照明が暗く油断していたが、この至近距離だ。まじまじと見ていた事もすっかりばれているらしい。
目が覚めて最初のうちは確かに掴んでいた主導権が、いつしかゲインの方に移っていっている事に気づいたゲイナーは、
ようやくここで口を噤む。これ以上何かを云ってもきっと無意味だ。相手にするだけ時間と体力の無駄だ。
持っていた赤い長靴はゲインに返そうとも思ったが、結局自分の枕許へと戻して、寝ます。と掛け布を頭から被る。
再び熱が上がっているのかくらくらした。ゲインは何も云わずにただ小さく笑っている。
男の穏やかな低い笑い声と淡い睡魔の中で意識をゆっくり溶かされながら、
ゲイナーはもう、故郷の夢を見る事は無いだろうという奇妙な確信を抱いていた。
自分の帰る場所は、今ここに、すぐ傍に在るからだ。
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ゲインとゲイナーのクリスマス。
二人で夜逃げ中みたいな感じに…5年後です。