30.
無くしたのは前に進む衝動好奇心という名の明日への希望外の世界を見たい願望停滞した現在を変えていく自信そこから生まれ溢れる野心と情熱
亡くしたのは父母兄弟親類側近従者腐ったシステムが作り出し腐った血脈が諾々と統治し続けたドームポリスという檻と枷けれど紛れもない一つの故郷
喪くしたのは友人仲間賛同者中立者反対していたピープル何の罪も無い一般人非力な大人年端もいかない小さな子ども笑っていたガエラガエラガエラガエラ
血に汚れた手の中には、もう、何も残っていない。
突き立てた刃先からはどす黒い血が流れ、それは生臭い匂いと共にゆっくりと伝う。
地面にこぼれ落ちては出来ていく、いくつもの血溜まりもそのままに、
更に深く抉ると鈍い音がして、その感触で硬い骨に阻まれた事に気づいたエリアルは、
しかし手にしたナイフを離さず、僅かに方向を変えてしっかりと握り直すと、より一層力を込めた。
頬に飛び散る血を厭う事もせず、ただ黙々と解体作業を続ける。
自分が生きる為に命を奪ったそれは、もう冷たく動かずただずしりと重たいだけだったが、内臓に触れた指は微かに温もりを帯びていた。
あたたかい。かつて自分達と同じように、命を宿していたもの。
エリアルは詰めていた息を肺から少しずつ吐き出すと、姿勢を正し、血に濡れた顔をゆっくりと上げる。
そうして、冷ややかな空気に包まれた漆黒の夜を飾る満天の星をひとしきり眺めた後、地上へと視線を戻した。
場所を選び注意深く焚いた火が照らす、赤い光の届く範囲で見える景色は、
鬱蒼と周りを取り囲むように繁る木々と血溜まりの中で引き裂いた獣、そして、横たわって動かない相棒だけだった。
見渡す限りの砂漠から、ようやく緑が目につき始めたこの土地に流れ着いたが、
未だ周辺地域ではロンドンイマによる厳重な警戒体制が敷かれ、掃討任務を遂行しているセントレーガンの目も光っていた。
その為、下手に動く事は出来ない。あれから、もうどれくらいの時間が経過しているのかも良く分からなかった。
月日の感覚がひどく曖昧だ。あの、エクソダスが崩壊した瞬間から、ずっと。
怒号、銃声、爆音、悲鳴、死体。それは、閉塞したドームポリスからの離脱に対しての、余りにも大き過ぎる代償だった。
目の前に広がる果ての無い砂と飛び散った血の光景は紛れもなくこの世の地獄で。あっけない程数多くの人が死んだ。
命が散るのは思っていた以上に簡単で、そんな異常な状況下、現実感をも見失いそうになった。
そして、崩壊していくエクソダスの中で首だけのガエラを見たシャルレは、シャルレの精神は、罅が入って静かに壊れた。
あれから、傷ついた互いの身体を引きずって逃げ延びたあの時から、ここで野営を続ける今まで、彼はずっと、一言も口をきかない。
人間に対しオーバーマンを使った中央の「制裁」という名の非人道的な大量虐殺が繰り返された戦火の中で、
今にも砲弾に当たって殺されかねない場所に、熱砂にぽつんと転がった首の傍でつっ立っていた彼を無理矢理連れ出したのは自分だったが、
おそらくシャルレの異変は一時的なショック状態なのだろうと思い、特に何も云わなかった。否、云える余裕も資格も無いのだ。
一日を、生き抜く事。
自分達が属していた社会を壊し、庇護も繋がりも全て失った今、それがどれ程難しいのかを、エリアルは今更ながらに身をもって実感する。
覚悟はしていた筈だが、現実は予想していた最低のケースを遙かに上回る威力で彼らを打ちのめした。
捌いたばかりの獣の肉と臓物を手際良くより分け、それらを火の傍で炙る。
すると臭いを嗅ぎ付けたのか、自分達のすぐ近くまで小動物がやって来たが、警戒しているのだろう、
本能で引いた一定の線からはけして入ってこない。そんな飢えた獣達を一瞥して、エリアルは焼けた肉に噛みついた。
これではもう、どちらが動物なのか分かりはしない。筋を犬歯で乱暴に食いちぎり、そんな事を思いながら口の端だけで笑う。
結構じゃないか。自分の奥底に潜む野性を研ぎ澄ませ、本能だけを頼りに生きる術を手探りで探す。
こんな状況では理性など何の役にも立たない。俺は、お前らと同じ動物だ。
自分の分をあらかた食べ終えると、傍で汚れた毛布にくるまっている動かないシャルレに声を掛けた。
「食え、シャルレ。身体がもたんぞ」
微動だにしない背中に、水の入った皮袋を投げてやる。やはり、反応は無い。
しばらく様子を窺っていたエリアルだったが、こうしていても一向に埒があかない事を悟り、
無反応の男の肩口付近に触れて、僅かに揺らした。相手が閉じているのなら、こちらから動くまでだ。
それに本当は少しだけ、危惧している事があった。仲間とはぐれ姿を隠し、逃げるようにそれでも旅を続ける、
その時間が長くなる程、シャルレは物を食べなくなった。少しずつ、けれどゆるやかに確実に彼が口にする量は減り、数日前にとうとう途絶えた。
「いつまで、そうしているつもりだ」
これは、緩慢な自殺行為だ。シャルレは、自らの手で生きる事を放棄しようとしている。
何も云わない男の肩口から毛布を剥ぐと、艶を失い乱れた深緑、そしてそこから擦り傷や銃器の煤で汚れきった浅黒い顔が覗いた。
蒼碧色の瞳はひどく虚ろで、陰の差した両眼に映るものは何も無かった。希望に満ちて夢を語った、あの日々が、幻だったと思える程に。
まるで、抜け殻だ。唇を噛み、せり上がってくる感情を押さえる。気持ちは分かる。痛い程。
何故なら彼と自分の目指すべきものは、出逢った時からずっと変わる事がなかったからだ。そして、結果背負った罪も。
しかしエリアルはその瞳に引きずられ、湧き上がりそうになった負の感情を振り切って、再び口を開く。
「こうしている間にもイマが追ってきてる。俺達は指名手配犯だからな」
さっさと食って移動するぞ。
声を潜めそう促すと、獣を裂き、そのまま地面に突き刺してあったナイフを引き抜いた。
その時、何も見ていなかったシャルレの、乾いた唇がゆっくりと微かに動き何かを紡いでいく。
「……ん…で」
なんで。
吐息だけで切れ切れに呟いた疑問の言葉は、エリアルの心の奥底に大きな塊となって重く落ちてくる。
なんで、こんな事になった。どうして。夢見た先に自分達が起こした行動はこんなにも惨い結末をもたらした。国を、人を、巻き込んで。
「……シャルレ、今考えるのは、その事じゃない。今は、生きる事を」
「生き、る…?…俺が…?」
闇にどろりと沈んでいた蒼碧色の両眸、そこに冥い光がうっすらと宿る。
何も見ていなかった、否、見る事を拒絶していたシャルレの瞳が、
エリアルが口にしたひとつの言葉に強く反応し、自分の意志で彼に視線を傾けたのだ。
シャルレは、エリアルをじっと見つめたまま、乾ききってひび割れた唇を歪めるようにつり上げた。
「ガエラを、人を殺した俺が?生きる?」
「…お前はガエラを殺しちゃいない。彼女はセントレーガンが…」
「同じだ!!俺があいつを殺した!あの、エクソダスで……、ッ」
咆吼のような叫びは胸を痛烈に抉り、エリアルの喉が出掛かった吐息で詰まる。
黙ったまま動かないそんな彼を、シャルレは憤怒と自嘲が混ざり合った複雑な表情でしばらく見つめていたが、
地面に腕をついてゆっくりと上体を起こし始めた。背中に負った銃創は未だ癒えず、僅かな振動さえも激痛に変えていく。
それでもシャルレは、きつく眉を寄せ顔を酷く歪ませながら、全身を襲う引き攣れるような痛みと、こみ上げる嗚咽を押し潰す。
唐突に、傍で燃えている火のはぜる音が耳をよぎった。軽い耳鳴りと共にようやく聴覚が戻ったような気がしたが、
おそらくそれは今まで聴こうとしなかっただけなのだろう。あの時から今まで喪失していた感情を取り戻し、
この時初めてそれを発露させたシャルレは、暴走する感情に理性を奪われながら、水分不足に半分潰れかけた喉で呻くように呟く。
「生きてて、どうなるんだ。…全部なくした…エクソダスも、何もかも…全部…終わったんだ。…だから、」
だから。
その先に用意されている言葉を、エリアルはもう知っていた。
それはシャルレがエクソダスで全てを失ってから、そしてガエラの首を見てからずっと準備していたものなのだろう。
食べる事を、生きる事を拒絶し、自らを殺そうとする、そんな言葉。
けれど、シャルレがそれを口にするより早く、エリアルは持っていたナイフを彼の首、
頸動脈の流れるちょうどその位置にひたりと押し当てた。
「……っ、」
突然の行動と、エリアルの隠そうともしない殺気を肌で感じたシャルレは僅かに身じろぎ、
反転しようともがいたが、エリアルはその動きを逆手に取り、勢い良く片方の腕で押さえつけると、彼の身体を再び地面に倒した。
途端、ガツ、と鈍い音がして後頭部に痛みが走ったが、それよりも背中への衝撃に眉を顰めたシャルレは、反射的に目を閉じてしまう。
「だから、死ぬのか」
落ちてくる低い声音にそろそろと瞼を上げると、エリアルがナイフを押し当てたままじっとこちらを見ていた。
酷い顔だ。自分と同じかそれ以上に汚れ、荒んだ顔。けれど瞳は力強く、まるで獰猛な獣のように、生気に溢れていた。
「だからお前は死を選ぶのか。失敗した責任を、それで償うつもりか」
「…エリアル……」
とっくに気づかれていたのだろう、返す言葉もなく濁った瞳でただ彼を見上げる。
エリアルは首筋に押し当てたナイフの刃へ、ゆっくりと力を込めていく。
チリ、と皮膚が少しだけ熱くなり、擦れるような感覚がした。
「お前が死んで何が変わる?いいか、シャルレ。何も変わらない。ガエラは生き返らないし、ウッブスも元には戻らない」
「だが…、」
「戻らないんだよ」
起きてしまった事も。犯してしまった罪も。
びく、と顎が小さく震える。無意識に目を覆っていた、耳を塞いできたものが、エリアルの言葉で現実となり心臓に突きつけられる。
うっすらと血が噴き出しているシャルレの反った首筋からナイフを離し、エリアルは構わず喋り続ける。
静かな語り口とは逆に、彼の胸の内は酷く乱れ混沌としていた。
自分を置いて死を請う相棒に対する怒り、憎しみ、哀しみ、そして微かな羨望。
この、自分達が作り出した大きな負債から逃げ出し全てを終わらせたいと願う壊れたシャルレの想いは、
後ろ暗くて誰にも云えない自分自身の想いでもあった。きっと、自分達は同じなのだ。合わせ鏡のように。
だからこそ、エリアルは云った。云わなければいけないと思った。
「無数の屍の上に今お前が生きている事を忘れるな」
シャルレに、そして自分に向けて。
あの地獄を思い出しているのだろう、目を伏せたシャルレの顔には耐えがたい苦渋が滲んでいた。
逃げ惑うピープル、弾け飛ぶ血肉と爆弾。為す術もなく襲いくる非情な現実から、故郷から逃げた請負人としての自分達。
「後悔するなら死ぬ気で生きろ。捨てた故郷の為にも、自分の手で作った犠牲者の為にも」
鼻筋に何か温いものが伝った。気づけばそれは涙だった。
幾筋もの跡を作り流れる涙のほとんどは、ひからびた頬に吸収されてしまう。
これは一体どういう感情が起因して溢れる涙なのか、エリアル自身分からなかったが、そんな些末な事はもうどうでも良かった。
「絶対に死ぬな」
蒼碧色の瞳が僅かに揺らぐ。
シャルレは涙を流さなかったが、顔をぐしゃぐしゃに歪め慟哭していた。声も無く、喉を震わせて。
たとえ全てに対し罪を購う事が不可能なのだとしても、それでも自分達は生きていかなければならない。
自ら生を捨てる資格すら、きっともう無い。それだけの犠牲を、自分は強いてきたのだから。
シャルレはようやく背負ったものの重さに気づいて、そして己の甘さと青さに心底吐き気がした。
首をなぞったナイフの傷が、今になって疼くように痛み出す。
あんなにも死ぬ事を望んでいたのに、エリアルに刃先を向けられた瞬間、身体は無意識に生き抜こうと動いた。
所詮それだけの決意だと笑われてもいい、それを浅ましいと思われてもいい。あの時、自ら死を回避した。死にたくないと。
その気持ちだけは、本当だった。
涙の跡を拭ったエリアルは立ち上がり、火を絶やさないよう枝をくべ直している。
薄暗く濁っていた視界が徐々に拓け、今まで死んでいた嗅覚が、獣の肉の匂いを捉えた。
途端、身体の器官がゆるゆると正常に機能し始める。
また、後悔するかもしれない。また、絶望するかもしれない。けれど。
上体を起こし、傍に転がっていた皮袋の飲み口を開け、中に残っていた水を全て飲み干す。
乾いた喉にそれはたっぷりと染み渡り、シャルレは全身の細胞隅々まで潤っていくような錯覚に陥った。
甲で濡れた口許を拭うと、残されていた肉を手で掴む。そして、時間が経ち既に固く冷えきったそれをゆっくりと食んだ。
けれど。
生きている。
まだ、生きているのだ。
顎の筋肉を動かし咀嚼しながら、この時ひどく自分の生を実感した。
こうして生きていれば、きっと変化し続けるのだろう。
今は嫌悪して止まない、自分の未熟な精神も、そして自分が望み、接触したいと願う外の世界も。
そんな当たり前の事実に、気づけなかった。擦り切れる程疲れ果て、醜い感傷に浸りきって、真実を見失いかけた。
つらいのは自分一人じゃない。傷ついたのは、皆同じだ。シャルレは、俯いて顔を上げず嗚咽と共に残っている肉を食べ続ける。
男はそんな彼のすぐ傍でぼろぼろになった地図を広げていた。明日の朝、ここを発つぞ。ぽつりと低く、それだけ告げて。
その言葉に無言で頷く。瞬間、僅かな光を見い出したシャルレの意識下で、鮮やかな組み紐がふわりと揺れた気がした。
■end■
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その事を忘れないで。