26.
あれから、部屋には戻っていない。
あの時からずっと胸に巣くっている気持ちは極力無視して、生活していた。
どれだけ考えても、あの朝一人で感じたものの正体が何だったのか分からなかったし、
けれど分からないクセに、気づいてしまっては自分の中の全てが変わってしまうという恐れにも似た予感が、どこかでずっとしていたからだ。
デスネッタとの戦闘があってから半月程経った今、ゲイナーはしばらく顔を合わせる事も、
口を聞く事も意識的に避けてきたゲインに対して、少しずつ普段通り振る舞えるようになっていた。
未だ彼の部屋に私物を置いたきり戻らない日々が続いているというのに、
半ば無理矢理普通の関係に戻そうとし始めたゲイナーを見ても、ゲインは何も云わなかったし普段の態度も崩さなかった。
それが彼の優しさからくるものなのか、それとも単に深く介入するのが面倒だと思っているのか、
ゲイナーには正直分からなかったが、ゲインのその変わらない姿勢に救われたのは事実だった。
結局、今自分が必死になって再構築しようとしている関係が、
彼と正面から向き合えない自分の弱さからきているものだと、少なからず気がついていたとしても。
部屋の鍵はいつでもゲインに返却出来るよう、ズボンのポケットに入っている。
これはゲイナーが彼に鍵を渡され、そして部屋を利用し始めてからもずっと続いている習慣のようなもので、
いつだってここから出て行けるように、今は仕方がないから、互いの利害が一致しているから借りているだけであって、
自分はいつでもこの鍵を返す気でいるのだという、ゲイナーが用意した彼なりの大義名分のようなものだった。
しかし、以前は持っているのかいないのか分からないくらいの存在感だったその鍵が、今とても重い。
返してしまえば楽になるし、自分が戻そうとしている所謂普通の関係に、すぐにでも戻る事が出来る。
主に作戦や連絡ばかりだが、ゲインとは身構えず話せるようになった。
普段通りの会話の中に、鍵を返す旨をさりげなく滑り込ませばいい。簡単だ。
今日なんて二人で遠出し毛長象を捕まえに行くのだ。それなのに。
キングゲイナーのコクピットにもたれ、ポケットの中に入れた手で、ゲイナーはもう何度も繰り返し鍵の感触を確かめている。
触り過ぎてぬるくなった表面を指の腹で感じながら、ひとつ小さな溜め息を吐くと、先に出たゲインと合流すべく機体を発進させた。
それなのに、どうしてこんなに躊躇しているんだろう。
どうして、手放せないんだろう。
「ゲイナー、もうお仕事はおしまいですか?」
にこやかに笑うアナ姫から、部屋に遊びにきて欲しいと招待を受けたのは、
エリアル・ニールセンという男が運んできた積み荷を下ろしてデッキの脇へ粗方移動させた後だった。
昔エクソダスした頃の知り合いらしく、ゲインは荷物の受け取りにサインをした後、嬉しそうに彼と連れ立ってどこかへ行ってしまった。
明日行われる作業の下準備を終え、一息ついていた手伝い要員のゲイナーの傍で、一連の様子を見学していたアナが声を掛けてきたのだ。
この後特に用事も無かったので了承すると、彼女は嬉しそうに笑い、お待ちしてますと弾んだ声で云った。
自室で着替えた後、ゲイナーが一番ユニットにあるアナの部屋を訪れると、彼女は美味しい紅茶を用意して迎えてくれた。
来賓用の豪華な部屋のつくりはあの請負人のものとほとんど同じだったが、
色とりどりのぬいぐるみ、ふわふわとした女の子特有の雰囲気を目の当たりにすると、ゲイナーは少しだけ圧倒されてしまう。
これが初めてでは無いし、こうして彼女に誘われて何度か来た事はあるのだが、いつまで経ってもこの雰囲気には慣れないのだ。
紅茶やお菓子をつまみながらしばらく二人でとりとめの無い話をしていたが、
話の内容が今日ヤーパンの天井を訪れたあのエリアルという男の事になると、
ゲイナーはふと気になっていた事を思い出し、アナ姫に訊ねてみた。
「そういえば、アナはゲインが昔やったエクソダスが失敗したって、どうして知ってたの?」
何故か長い鼻に絆創膏を貼られた象のぬいぐるみを腕に抱えていたアナは、
きょとんとした表情でゲイナーの言葉を聞いていたが、少しだけ首を傾げ口を開いた。
「ウッブスのエクソダス、って、ゲイナーは御存知ありませんか?」
「ウッブス?」
「フェリーベ公爵家が統治していた、南のドームポリスです」
「…フェリーベ、公爵家」
何処かで、その名を聞いた事がある。ゲイナーが頭の中で記憶の糸をたぐり寄せている間も、アナはゆっくりと話を続けた。
「昔、そこで大きなエクソダスがあったんです。
統治者であるフェリーベ公爵は民衆の手によって殺されたといいますから、皆かなりの不満を持っていたのでしょう」
あぁ、ずっと南だ。
赤道の向こうにあった。
ウッブス。フェリーベ公爵家。ゲイナーの中で、断片的だった記憶がつながっていく。
二人で敵を待ち伏せしたあの夜、ゲインが少しだけ漏らした、彼の昔にまつわる単語。
「でもそれはロンドンイマの厳しい制裁を受け、失敗。
ピープルは皆バラバラになってしまいました。確か、ドームポリスはお取り潰しになったと聞きます」
「それに、ゲインは加担していたんだ…」
「私も、詳しくはよく知らないのです。でも、ゲイン・ビジョウという名前は有名でしたよ」
今までの常識を覆す、センスのある請負人だと。
そう云って、アナは抱いていた象のぬいぐるみを脇に置くと、ティーポットを手に取り紅茶のおかわりを互いのカップにゆっくりと注いだ。
リンクス達は少女の足許で白くまるい固まりになり、各々あくびをしたり眠ったりしている。
アナはピープルを統治するドームポリスの領主の娘で、
ゲインはピープルを煽動する、いわば彼らと敵対するエクソダスの請負人だというのに、彼女の語り口はとても穏やかだった。
まるで憧れすら抱いているようで、そういえばゲインも、アナ姫は外の世界を見たがっていた、と云っていた事を思い出す。
ゲイナーにはとうてい理解に苦しむが、案外二人は似たもの同士なのかもしれない。
それにしても、いくらセンスのある請負人でもエクソダスに失敗しては、元も子も無いではないか。
更にドームポリスまで無くなってしまっては、エクソダスに参加しなかった良識的なピープルも大勢路頭に迷ったに違いない。
失敗すれば身を滅ぼしかねない程の高いリスクを背負って、それでもどうしてゲインは請負人をやっているのだろう。
どうしても、動き出さなくてはならないのだろうか。
「なんだか、ぜんぜん納得のいっていないお顔」
うふふと笑われ、その声にゲイナーはようやく我に返った。
どうやら自分が思っている以上に、自分の考えに真剣に没頭し過ぎてしまっていたらしい。
途端に妙な気恥ずかしさが生まれ、ごめん、と口の中でもぞもぞ小さく謝るゲイナーを、アナは首を振って構いませんよ、と笑った。
「ほんとうはね、元気になってもらう為にお呼びしたのですが、もう、大丈夫みたいですね」
「…え?」
ぽかんとしていると、アナは座ったままでゲイナーの顔に自分の顔をぐ、と近づけた。
菫色の大きな瞳は、身長差の所為で上目遣いになってこちらをまっすぐに見上げている。
「デスネッタと戦ってから、なんだかゲイナー、元気がなかったでしょう?」
「…」
思わず、彼は黙ったまま、真正面に座る小さな姫君を凝視してしまった。
洞察力の鋭さは多分自分よりも遙かに高く、そして大人以上に優れているだろうと常々思っていたが、気づかれていたのか。
自分では何とか取り繕っていたつもりでいても、やはりあの時は酷い顔をしていたのだろう。
「ごめん。…なんだか、心配かけて」
「いいえ。だってゲイナーは、私がお父様と電話をした時、傍にいてくれました。泣いて寝てしまうまで、ずっと」
「あれは…でも、僕は本当にいるだけだったし、」
気の利いた言葉ひとつ、君に掛けてあげる事も出来なかった。
ポツリと、付け加えるように小さく呟く。
結局彼女の涙の真意も、話を聞いただけのゲインによって気づかされたというていたらくだ。
「いてくれるだけで、嬉しかったです。言葉なんて無くても私は元気になれたもの」
ね。と力強くそう云い切ると、アナは無邪気な笑顔をその口許に綻ばせる。
いてくれるだけで。
傍に、いるだけで。
言葉なんてなくても。
目の前の少女の言葉に喚起されたのか、ゲイナーの頭の中で不意に、あの夜の心理状態がぼんやりと甦った。
確かにあの時自分は慰めの言葉なんて必要としていなかった。ただ眠りたくて、忘れたくて、その為にはゲインが必要で。
「……」
ポケットの中の鍵がまた、重たくなった気がした。何故ゲインなのか。他の誰でもない彼だったのか。
「ゲイナー?」
不思議そうにアナが声を掛けてくる。
再び沈み掛けた思考を慌てて中断したゲイナーは、カップに残っていた紅茶を一息で飲み干して立ち上がった。
「そろそろ帰るよ。ありがとう、アナ」
純粋に心配してくれていた彼女の優しさに心の中でもう一度感謝をしながら、
部屋を後にしたゲイナーは、ゆっくりとある一つの決意を固めた。
明日だ。
明日、手伝いを終えたらゲインに鍵を返そう。
部屋に残してきた私物も明日そのまま全部引き取ってこよう。
揺らぎ始めるより早く、この正体不明の感情を知る前に。
何故ゲインなのか。
その疑問に対する答えを、本当に全く分かっていないのか、といえば少し嘘になる。
『こんな事云えるの、あんたしかいないじゃないですか』
あの時、半ば投げやりに告げた言葉の裏に潜んでいた様々な本音と感情が、きっとそうだ。
けれど、その答えを出せば同時に最低で卑怯な自分を目の当たりにする事が、ゲイナーには耐えられなかった。純粋に、怖かったのだ。
布団から抜け出し、手早く着替えてガウリ隊のコートを羽織ると、上で眠るアデットを背にしてそろりと部屋を出る。
出ていく間際に見た時計の針はとうに日付が変わり、もう早朝の4時を過ぎていた。
それなのに奇妙に頭の奥が冴え渡ってしまって全く眠気が襲ってこないのは、昨日の戦闘の所為かもしれない。
自分と対峙した自分。そして、初めて聴いたゲインの声と、初めて見た、ゲインの涙。
居住ユニットからバッハクロンへ続く人気も無く薄暗い通路をひたひたと歩きながら、
ゲイナーはポケットから出した手の中にある鍵を、強く握りしめた。
あの時、ただ眠りたかっただけなんて嘘だ。
本当は現実から逃げる為にゲインと彼のくれる快感を利用した。
ゲインは誘いを拒まないと思った。彼が自分に少なからず好意を持っている事を、ゲイナーは知っていたからだ。
冗談みたいな告白を、真剣に受け止めるなんて馬鹿だと思う。
だけどあのタイミングは余りにも的確過ぎたし、そんなものに頼ってしまう程、当時の自分は精神がどうしようもなく不安定だった。
言葉の真偽は関係無かった。ただ、その言葉だけあれば良かったのだ。
そうしてそれを利用し逃げ出そうとして、結局逃げきる事が出来ず次の日絶望的な自己嫌悪に陥った。
熱とアルコールに朦朧と浮かされ、汗ばんだゲインの腕の中で聴いた、後悔という厭な言葉が何度も頭によぎったが、
冷静になってみると、あの朝胸を苦くさせたものの正体は、少し違っているように思えた。少し違う、別の感情。あれは。
ゲインは知っていたのだろうか、こうなる事を。現実からは所詮、逃げられる訳が無いという事を。
操舵席の背後の通路を横切ってしばらく歩いていくと、外の甲板に通じる非常用扉の前に出る。
一度、年が明けてすぐにゲインに連れてこられた。
ここは、真っ白く凍りついた地平線からのぼる、大きな朝陽を見る事が出来る絶好の場所だった。
ゲインはここが好きだと云った。必ず現れる不変の太陽。一日が始まる光景。そして、もうすぐ朝になる。
これはただの勘でしか無かったが、ゲイナーは左手で鍵を握りしめたままもう片方の手で重く鈍い扉をゆっくりと開けた。
瞬間、冷ややかな風が顔に直撃して思わず目を閉じてしまう。
バイカル湖を渡りきり、次第に南下していると云っても、未だ氷に閉ざされた土地にいるのだから夜の温度は常に氷点下だ。
その後そろそろと瞼を開き、冷たい風だが幸いにも吹雪では無い事に気づき、安堵する。
そしてゲイナーは何度かまばたきを繰り返すと、まだ陽がのぼっていない薄暗い空を背負い、
甲板の柵に凭れて立っているゲインの後ろ姿を、ようやく自分の頼りない視界に捉える事が出来た。
外に出ると実感する、地を這うような轟音と振動は、ユニットが順調に移動している証拠だ。エクソダスが続いているという確かな。
凍りつくような外気の冷たさを手袋越しに感じながら、ゆっくりと、鍵を握りしめる。
「…寒くないんですか?」
思わず口に出してしまってから、ゲイナーはその言葉をすぐさま撤回したくなった。
そんな当たり前の事を訊いてどうするんだ。顔の皮膚は冷たくなるばかりなのに、耳だけ異様に熱くなる。
「あぁ、寒い」
余りにも当たり前過ぎて無視されるかと思っていた問いは、きちんとゲインの声となって返ってきた。
未だ薄暗い闇が占拠する夜の中、ゲイナーに背を向けたまま、更にコートのフードを深く被っているので、顔はおろか表情も何も全く見えない。
「でも、それでいいんだ」
生きてるって、実感できる。
風に砕け散る真っ白い息と共に、微かに笑みを含んだ穏やかな声でそう云うと、ゲインが少しだけ顔の向きを変えた。
ちょうど風が正面からあたり、たなびく白いファーの端からクセのある鼻梁が覗く。ゲイナーは黙って、その横顔を眺めていた。
これまで必死で考え用意してきた言葉が、何故だか全く口から出てこない。
それどころか、早く何か云わなければと焦れば焦る程、頭の中で考えがとりとめなく流動していく。
「皮肉なもんだな」
「…え?」
短い沈黙を破ったのは、再びゲインからだった。
ファーから僅かに覗く彼の深緑の髪先は、闇に溶け本来の色を無くし黒く風に揺れている。
「一番生きる事に執着してた奴が、俺より先に死んじまうなんて」
喋るたびに彼の口から吐き出される息は薄闇にはっきりと浮かぶ程白く、そしてすぐに冷ややかな風によって攫われかき消されていく。
ゲイナーは淡々と話すゲインに対し微かに眉を寄せたが、それでも口を噤んだままだった。
自分から見れば、一番生きる事に執着しているのは、ゲインの方だ。生きる事。動き出す事。
だから、彼はエクソダスをするのだろうか。自分の中に存在する生を、命を感じとる為に。
「…エリアルさんに云われたんです」
ゲインの背中を見てからずっと流動し続けている考えは、何故か自分にこんな言葉を吐かせた。
扉を開けたのは、ゲインに会いにきたのは、部屋の鍵を返す為だった筈なのに。
それなのに、鍵を握っていた掌はいつの間にか再びポケットの中へと収まっていた。それにも気づかず、ゲイナーは言葉を続ける。
「奴の相棒なら、毛長象の肉くらい捌けるようになっとけって」
「…あいつらしいな」
それを聞いた男の両肩が、く、と小刻みに震える。思い出し、笑っているのだろうか。
「僕は、捌けないですよ」
「知ってるさ」
「そもそも、いつからあんたの相棒になったんですか」
ゲインの背中はもう笑ってはいなかったが、その質問に答えなかった。
頬がひどく冷たい。喋っているのに奥歯が次第に噛み合わなくなってきた。そろそろ限界かもしれない。
こんな事なら防寒用の帽子も持ってくれば良かったと、ゲイナーは寒さに耐えるように自分のコートのを襟をきつく合わせながら、
下に逸れていた視線を戻す。瞬間、心臓が、一際強く脈を打った。いつの間にかゲインが向き直り、真っ直ぐこちらを見ていたからだ。
あの後何度か話をした。顔だって合わせていたのに、初めてきちんと視線が合った気がした。
そうだ。切り出さなければ。早く話を。その為に自分は来たのだから。
「…要するに、僕が何を云いたいかって、いうと…」
鍵を。
あなたに。
「俺は本気だぞ、ゲイナー」
返そうと。
思って。
「お前は俺と似てる。生き抜く事に関しては、特にな」
再びようやくまとまりかけた決意は、相手の予期せぬ言葉で一気に攪乱された。ゲイナーは思わず片目を眇める。
似ている?この男は本気で云っているのだろうか。
自分の事しか考えられなくて、一時しのぎの快楽を得て、でも忘れられなくて、最低で、卑怯な。
そんな自分と、目の前のゲインが?
「……僕は、あなたを利用したんですよ?あの時、」
耐えきれず口に出してしまった言葉は余りにも唐突で自分でも面食らったが、
途端、胸の奥につかえていた何か不快なものが一緒に流れ出ていくような気がした。
「利用?結構じゃないか。俺は効果は一晩だけだと云った。それでもお前は選んだんだろう?」
「そりゃ…そうですけど…」
云い淀んで、それでも何か返そうとした。
しかし結局言葉を無くしてしまったゲイナーから視線を外さず、ゲインは風の中でその蒼碧色の瞳を少しだけ細める。
「なら、後についてくる結果を受け止められるかどうかも、選んだお前次第だ」
「………」
後についてくる、結果。
あの朝、襲いくる自己嫌悪の中で感じたもの。
ガウリを殺さなかったという、間違っているかもしれない答え。
それを受け止める勇気が、自分の苦手な自分の幻と対峙し、勝利した今なら、あるかもしれない。
「………後悔は、してないつもりです」
俯いたまま、しばらく言葉を探していたゲイナーが、ようやくぽつりと呟いた。
「結局、現実からは逃げ出せなかったけど…きっと、それで良かったんだ」
今感じている想いを直接声に出しているのか、たどたどしく話す茶色の頭を見つめながら、
ゲインは引き結んでいた自分の口許が少しだけ和らぐのを感じた。なんだ、もう分かっている。
乗り越えられているじゃないか。自分よりも早く、自分以上に鮮やかに。やはりこの少年にはセンスがある。
「お前が後悔してないんなら、それでいい。それに俺は、ガウリを殺さなかったお前の選択は、正しかったと思うぞ」
「………」
ゲイナーは黙ったままで、じっと甲板の床を見つめている。
柵から離れ、ゲインは立ちすくんでいる少年に近づくと、促すように肩を叩いた。
「さて。そろそろ戻るか、相棒」
朝陽を見るまで粘りたかったが、さすがに冷えたな。と少し笑う。この環境に慣れたとはいえ、夜明けの寒さは格別だ。
いつの間にか話題が蒸し返され、まんまと相棒認定されている事に気づいたゲイナーが、妙な表情を浮かべ男を見上げる。
彼もまた相当冷え込んでしまっているのか、眼鏡の奥から覗く睫毛が微かに薄い氷で縁どられかけていた。
「云っときますけど、相棒になる気はないですよ。…それに、」
云いかけて、視界が少しだけぼんやりと薄明るくなっている事に気がつく。
いつの間にか、軽く竦めたゲインの肩越しに見える遙か遠くの地平線には目映い程の光がたっぷりと一直線に広がり、横たわっていた。
朝が、始まろうとしていた。
「僕は、あなたより先に死にませんから」
エリアルのように。
あなたのかつての相棒のように。
重い扉を開き、がらんとしたゲインの広い背中を見てからずっと流動していた考えが、想いが、ようやく形となり伝えるべき言葉になる。
云い放ってしまった後の気持ちは奇妙に冷静で、そんな心境になったからか、唐突に部屋の鍵の事を思い出したが、そっと意識の隅に押し戻した。
鍵なんて、部屋なんて、普通の関係なんてもう、そんなものは全て、後回しだ。
突然、ゲイナーの茶色の頭に大きな掌が落ちてきた。そのままくしゃりとかき回される。
手袋越しで体温もほとんど奪われてしまっているから、感触もおおざっぱにしか分からない。
のぼる朝陽で逆光になっているからゲインの表情も分からなかった。お互い黙って、ただユニットが移動する風の流れと振動音を聴いている。
ポケットの中に潜む鍵は、もう重くは無かった。
■end■
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・たくす【託す】
自分がなすべき事を頼む。預ける。ことづける。