08.



同じ人なのに見た事の無い表情。仕草。声。言葉。
時折偶発する、いつも目で見て認識している場所とは全く別の角度から相手を覗いてしまった、瞬間。
まるで間にぶ厚い壁が一枚入り込んだ、他人みたいなよそよそしさを目の当たりにしてしまったようで、何故だか胸をざわつかせる。
いい気持ちはしないのに、反面ひどく落ち着かなく、そして頭の片隅にひっかかるのも事実だった。

つまり、自分にとって良くも悪くも気になる人物なのだ。ゲイン・ビジョウという男は。



夕陽が傾きかけた放課後、一人教室に居残っていたゲイナーは、
サラから借りていたノートの内容を全て写し終えた後、解放感と共にペンを置くと、
自分の席に座ったままで両腕を天井に向け、硬くなった身体を解すように大きく伸びをした。
欠席していた27日という期間は、びっしりとノートを埋めつくす文字の膨大さに余す事なく現れており、
改めてそれをまじまじと見下ろしたゲイナーは、思わず一人ひっそりと嘆息した。一教科だけでもこれだ。
先を考えると少しだけ気が遠くなったが、それ以上に借りたノートを通じて彼女の優しさに触れた喜びの方が大きかった。
本音を云えば、こうして紙面を占める彼女のきちんと整った文字を目で追うだけでも幸せなのだ。
随分お手軽だと自分でも呆れるが、実際そうなのだから仕方が無い。
ひたすら書き写すという単調な作業も、ゲイナーにとっては素晴らしい時間だった。
机の上に広げていた二冊のノートをまとめて鞄に詰め込みながら、着々と帰り自宅を進める。
他に持っていく物は無いかと腕を伸ばし机の中を探ってみると、くしゃくしゃになった紙の質感が指先にぶつかった。
更に上体を落とし、何とかひっぱり出してその皺だらけの紙の正体を突き止めた途端、ゲイナーの眉が微かに曇る。
それは一昨日、授業で返ってきたテストの答案用紙だった。
もちろん結果は最低だ。休んでいた期間の内容が、まるまる試験範囲だったのだから。

 「ママドゥ先生もマメだよなぁ」

今現在、自分達が生活するユニットという世界は、住み慣れたドームを捨てヤーパンへとエクソダスしている、
という厄介で前例の無い特異な状況下だというのに、ピープルの多くは未だ冬至の祭り気分を引きずっていた。
それなのに学校の授業はちゃんとあるし試験だってある。非日常の中、頑として日常を守るように行われているそれは、
無理矢理地に足をつけようとしている気がして、なんだか奇妙でふに落ちない、おかしな事態だとゲイナーは思っていた。
力強い朱色で走り書きされた壊滅的な点数をひとしきり眺め、小さな溜め息を吐き出しながら、
手の中で何度も皺を伸ばし、きちんと四角に折り畳む。今となってはもう、見せる相手もいない、必要も無いそれを。

 「あれ?」

不意に、聴き慣れない声が耳に響いて、ゲイナーは弾かれたようにびくりと俯いていた顔を上げた。
人の気配なんて全く感じなかった、それなのに。声のした方向に視線を移せば教室の出入口付近、
無造作に開かれた扉の空間から、見知った相手が僅かに顔を覗かせていた。

 「え?」

相手と同様、無意識にゲイナーも間の抜けた声を出してしまう。
何故ならそこに居る人物は、絶対にこの「学校」という領域では見る事の無い人物だったからだ。
だから彼を見た瞬間とても不自然で、云い知れない曖昧な違和感が、自分の中に降ってわいた。
聴き慣れないと思ったのは、絶対にありえないと頭の中で決めてかかっていたからかもしれない。けれど、どうして。

 「…何してるんですか?ゲインさん」

訪れた沈黙をおそるおそる破るように少年に名前を呼ばれた男は、
呼ばれてからもしばらく周囲を見回していたが、満足したのかそのままガラガラと音を立てて教室の扉を押し広げると、
ようゲイナー、とまるで質問にかなっていない挨拶を寄越した。くたびれたぶ厚く白いコート、通信機能のついた耳あて。
やっぱりこの場所に全くそぐわない格好で、整然と並べられた机の間を縫いながら教室の奥、
予期せぬ突然の侵入者に、茫然とした表情でぽかんと座っているゲイナーの方へすたすたと歩いてくる。

 「ママドゥに用事があってな」
 「先生なら職員室ですよ」
 「あぁ、それは済ませてきた。ただちょっと」

迷ったんだ。
と、何故かさっぱりとした表情でそう云うと、ゲインは着席したまま胡散臭そうに自分を見上げている少年をまじまじと見下ろした。
何故だか口許には楽しそうな笑みさえ浮かべて。ゲイナーはますます胡散臭さを発揮する相手を、更に訝しげに見つめ返した。

 「そうしたらお前を見つけた」
 「はあ…。まぁ、似たような造りの校舎ですけど」

迷うか?普通。というかこの男が。エクソダスの請負人が。
ユニットの地理なんて、ここに住んでいる自分以上に全て頭の中へ入っていそうなものなのに。
なんだかおかしい。それは本当になんとなくで、確たる根拠も無い。けれど、もしかしたら、ゲインの言葉は嘘かもしれない。
ゲイナーは唐突にそんな漠然とした疑問を抱いた。彼の気持ちを知ってか知らずか、ゲインは少しだけ煩わしそうに耳あてをずらし、
首に引っかけると、コートのポケットに手袋をしたままの両手を突っ込んで話し出す。

 「面白い場所だな、ここは」

そう云って、本当に感心しているのか興味深そうな表情で顔を上げ、ぐるりと教室内を見渡す。
西側に面した場所なので、この時間になると窓からはとっぷりと濃い夕陽が差し込み、それはゲインの浅黒い頬を照らした。
つられるように男の視線を追い、ゲイナーも口を開く。手に持っている小さくなった答案用紙をそそくさと鞄の中に忍ばせながら。

 「普通の教室でしょ?別に、何処にでもある学校の、普通の」
 「ゲイナー」

窓際の方へと移動していたゲインが、急に名前を呼んだ。
その所為で続けようとした言葉を中途半端に飲み込む羽目になり、
ゲイナーはそのささやかな腹いせに、沈黙という反応の形で相手の言葉をじっと待った。

 「学校は楽しいかい?」

思わず虚を突かれる。物凄く、合わない。
浮き世離れしたゲインと、そんなゲインの投げかけた現実的な質問はまるでちぐはぐで、
そんな事を訊かれる事自体すごく不思議で、ゲイナーはなんだか可笑しくなってしまった。
ここは普段見慣れた、通い慣れた教室なのに、ゲインという異分子がひとつ加わるだけで、突然違う世界に放り込まれた気がする。
それはきっとゲインという存在が、「非日常」に近いからだ。普通に暮らしていたら絶対に逢わなかっただろう、そんな特異な存在。

 「…まぁ、それなりに。テストが頻繁な事以外は」
 「ママドゥはいい教師なんだが、それだけは頂けないな」

少年の正直な感想を聞き、懐かしそうに目を細めたゲインは声を落として低く笑いながら、勝手に窓のロックを解除した。
そのまま腕を伸ばし枠に手を掛けると、がらりと窓を開け放つ。途端に冷ややかな風が遠慮無く教室の中へと入ってきて、暖気と混ざる。
ちょっと、何勝手に開けてるんですか。口に出しかけた言葉は、しかし違うものに形を変えて声になる。
文句をぶつけるよりも、先程云った彼の言葉の方が気にかかったからだ。

 「ゲインさんも、ママドゥ先生に教わってたんですか?」

昔。
何処かで。
彼らの故郷で?

教壇に立ち授業をしているママドゥと、教えられているゲイン?なんだか全く想像がつかなかった。
彼にもそんな時代があったのだろうか。自分と同じようにテストを嫌がるゲイン。
純粋な興味から出た質問は、けれどいつもの人を食ったような笑みではぐらかされ、流された。

 「さて、昔の事だからな」

けして嫌な云い方ではない。不自然でも。それなのに、ゲイナーは人知れず全身からゆるゆると力が抜けていく自分を感じた。
いつもの事だ。はぐらかされるのも、流されるのも。全てを捕まえられてしまうのはいつだって自分で、
それなのに自分は男の過去の端さえ捕まえる事が出来ない。理解ってはいる。生きてきた長さも重さもまるで違う。
理解っては、いるのだけど。

 「…悪かったんでしょ、テスト」

残りの物を力任せに鞄へ押し込み、帰り支度を全て終えたゲイナーは、
意を決してがたんと大きな音と共に席を立つと、窓の外を眺めている男の後ろ姿に近づいた。

 「だから覚えてないんだ」

傍に立ち、軽く身を乗り出して、すぐ隣で同じように窓の外暮れゆく夕陽を視線の端に捉えながら、
ゲイナーは半ば自棄のように憤然と一人そんな事を呟いた。何故だか分からないがとても腹立たしかった。
先に質問を投げかけたのは向こうなのに、そして自分はきちんと答えたのに、こちらの質問には答えようとしない自分勝手なゲインに。

 「そうかもな」

軽く眉を上げ、少しだけ笑いながら隣に立つ男が頷いた。
額に吹きつける風は見えないくらいの細やかな雪を含んで冷たかったが、それでも頑なにゲイナーは夕陽を見続けていた。
意地、のようなものが発動されてしまったのかもしれない。全く意味のない、我ながら変な意地の張り方だとは思ったけれど。
ごうごうと流れゆく乱暴な風と移動するユニットの鈍いエンジン音でぶれ、聴こえにくくなっている耳が、その時小さな言葉を拾った。
勉強は嫌いだったな。

 「でも、学んでおくと生き延びる確率が断然違う」

聴かせる気が無いのか、口の中で独り言のように呟くと、ゲインは再び黙り込んでしまった。
黙って、地平線に焦げつくような夕陽を見ている。ゲイナーも口を閉ざしたまま、
切り絵のように現実味のない、黒い建物の中へゆっくりと沈んでいく太陽を見ていた。
なんだか、話を続けるタイミングと、帰るタイミング。そのどちらも逃してしまい途方に暮れるような気持ちだった。
変に心細い。隣に居るのは良く知っている男の筈なのに、話せば話す程、近くにいればいる程全然違う人間のような、そんな気がした。

けれど、二人の間に横たわるたっぷりとした沈黙を無造作に破ったのは、その男の方だった。
いきなりぐ、と強く肩を捕まれたかと思うと凄い勢いで力が下へと働いて、自然に床へしゃがみ込むような格好になってしまう。

 「な、っ…何するんですか、いきなり!」

突然の事にもちろん身体はついていける筈も無く、
教室のかたい床にしこたま尻餅をついたゲイナーは、訳も分からずただ痛みを持て余しゲインを睨みつけるしかなった。
隣で腰を落とし、身を潜めるように片膝をついているゲインは、人差し指を口許に押しあてながら、小声でひそりと告げる。

 「ガウリだ。見つかったら色々と面倒でな」
 「どうして…」

顰め面のゲイナーに問いをぶつけられ、少しだけ何かを考えていたゲインだったが、
何故かその答えは間近になった顔と、突然触れた唇の直接的な体温となって返ってきた。
全く予想だにしない相手の行動に驚いたゲイナーは、必死で腕を突っ張って抵抗を試みたが、
体力の差は悲しい程歴然で、結局離してもらえたのはたっぷりと口内をまさぐられた後だった。
力の抜けきった身体で、それでも絡みついた腕を振り解こうとしながらゲイナーが憤然と怒鳴る。
予感は的中だ。この男がこんな所をふらふらしていたのは、やはり理由があったのだ。
あの時胸をよぎった漠然とした疑いが、この時ようやくつながった。

 「やっぱり、あんたサボりに来たんですね!迷っただなんて云って…」
 「ママドゥに用事があったのは事実だぞ。迷ったのも」

半分本当だ、と云う言葉を、もういいですよと遮って腕の中から逃げ出そうとした。
けれどゲインの表情も口ぶりも普段通り飄々としているにも関わらず、両腕の拘束はびくともしない。

 「……半分って何ですか」

無駄な抵抗で体力をすり減らし軽く息を切らしながら、ゲイナーはふとその意味が気になって尋ねてみる。
どうせろくでもない答えしか返ってこない事は明白だったのだが。
その質問を受けたゲインは抱き寄せる力を次第に強めつつ、少年の顔を可笑しそうに覗き込んで云った。

 「教室で答案用紙片手にどん底の表情を浮かべてるお前を、見捨ててはおけなかった」

ゲイナーの表情と身体が固まる。その後じわじわと耳の辺りに熱が通った。必要以上に。
やはり相手は自分より一枚もニ枚も上手らしい。悔しいが。認めたくはないが。
まるで他人みたいだと思ったのに。先程まで本当に、別人のように見えていたゲインだったのに。
そんな相手にあっさり全てを見抜かれていた事実に、ゲイナーは反論する気力も、また体力も残っていない。
結局あの時の質問には答えてくれなかったし、誰もいない教室で突然キスなんかされた。されている、今も。
けれど、押し退ける力も無くされるがままで、結局彼のサボタージュに荷担して。
全く自分が何をしているのか、何がしたいのか、何に怒っていたのか分からなくなりそうだ。
ゲイナーはキスの合間の息継ぎで、諦めにも似た悔しさを感じた。

今確実に分かるのは他人の、ゲインの体温だけだなんて、本当にどうかしている。




■end■

学校で色々するってとても萌え。