09.



ゲイナーがゲインの部屋の中で唯一嫌いでは無い場所は、その広いバスルームである。

かつて名のある貴族達によって使用されていたのだろうか、
そんな豪奢な客室を、エクソダス請負人であるゲインはあてがわれていた。
が、暮らす人間が人間なだけに、あれ程素晴らしく感じた部屋も、必要不必要良く分からない物等々、
彼が持ち込む私物で徐々に埋まっていき(自分の部屋もかなりのものだが、それを軽く上回るくらい)、
贅沢且つ立派だったそこは日が経つにつれその威厳を失い、結果、ただ広いだけの雑然とした部屋となった。
けれど、バスルームをはじめとした水回りだけは、あの粗雑な男が使っているにしてはいつも綺麗にしてある。
彼なりのこだわりでもあるのか、訊いた事が無いから分からないけれど、ゲイナーとしては有り難い事この上無い。

アデットが自室を占領したせいで居場所が無くなったゲイナーは、今現在ゲインの所にこっそりと身を寄せている。
初めて彼の許へ訪れた時、自分が今まで信じてきた世界を、常識を、全てひっくり返されるような出来事がそこで起こった。
あんな酷い事をされたというのに、何故帰らないのか、帰れないのか。自分でも分からない。
ただ、肌を触れ合わせ嫌悪感を抱かなかったのは、両親以外の他人では、この男が初めてだったのだ。

 「…ん?」
衣類を脱ぎ掛けたゲイナーが、洗面所で見慣れない物がある事に気付いた。
 「何だろう、コレ」
ひょいっと指先で摘める程小さなそれは、クラシック調の硝子の壜で、中には真珠色の液体が入っている。
小壜の表面に貼られているシールには、ふわふわと真っ白で豊かな泡の絵が描かれていた。
 「………泡?」
ひっくり返して裏面をまじまじと見てみると、

『御自宅の浴槽に適量を入れ湯を溜めて頂きますと、お手軽に泡風呂を楽しむ事が出来ます。』

と簡単な説明書きがあった。
 「泡風呂」
呟いたゲイナーの頬がほわわんと紅潮する。
ずっと昔、テレビジョンで見た古い映画の中の断片的な光景。
お金持ちの女性が自分のバスルームで泡風呂を満喫しているシーンが、子ども心にとても羨ましかった。
自分も何時かあんな事をしてみたい。そんな事を思っていた懐かしい記憶が胸を暖かくさせて、
同時にそれは抑えきれない好奇心となって、ゲイナーの中でむくむくと頭をもたげ始める。
 「…まだ沢山あるし、ちょっとくらい使ってもいいよな…?」
リビングに居るゲインをそっと窺うように首を伸ばし(扉は閉まっているので全く無意味なのだが、気持ち的に)、
借りますね、と一言断ってから、ゲイナーは身につけていた残りの服をいそいそと取り払っていった。
彼の頭にはもう、念願の泡風呂を楽しむ事でいっぱいになっている。

バスルームに足を踏み入れ、小壜の蓋を開けると早速浴槽の中にトロリと垂らし、湯を溜め始める。
普段はシャワーだけなので、実はこの広い浴槽を使うのは初めての体験だった。
泡風呂が完成するまでに手早く全身を洗っていたのだが、その間も気になって仕方が無い。
微かにくすんだ金色の、何か動物のフォルムをしている太く豪華な蛇口がざあざあと湯を吐き出す。
しかしここの浴槽は無駄に広い。故に湯が溜る時間もたっぷりかかる。
身体を洗い終って手持ち無沙汰になってしまったゲイナーが浴槽のヘリに顎を乗せ待っているのだが、
余りにも広過ぎるせいか泡も期待する程出来ないし、どうにも埓が明かない。
(…量が足りないのかなぁ。もっと入れてみようか)
そうしたら、もっと泡々になるのでは。

思ったら即実行。

この言葉は自分よりゲインの方が良く似合うのだが、泡風呂に懸けるゲイナーの情熱も凄かった。
浴槽のすぐ傍に置いてあった小壜を掴み、先程の倍以上の量を湯船に落とすと、少しだけ変化があった。
次第に泡が増えていく。待つ事すらもどかしくなったゲイナーは、半分程泡が出来ている湯船に自分も入った。
おずおずと足をそこに差し入れてみると、瞬間、ほわんと柔らかく甘やかな香りと共に、泡の感触が爪先に触れる。

 「わ。す、ご…」
すごい。
すごい。
本当に泡だ。お湯が泡だ。
嬉しさで口許を綻ばせながら、自分が作った泡風呂を楽しむゲイナー。
しかし、そんな彼の身に突如不幸が襲ったのは、それから数分後の事であった。



 「うわあぁぁぁ…!」

バスルームの方向から聴こえてきた悲鳴のような妙な声に、
ガウリから渡された補給物資のリスト調整をリビングで行っていたゲインが、思わず顔を上げる。
(何だ…?)
数秒もせずソファの下から拳銃を引き抜くと、声のした方へ急いだ。
鼓動が次第に速くなる。
神経が冴え、脳が、身体が戦闘態勢に切り変わる。
(敵襲か?)
銃を構えて、バスルームへ続くドアを一発蹴ると扉は簡単に開いたが、
洗面所には人影は無く、しんと静まり返っている。ゲインは無意識に舌打ちした。
(シベ鉄か…まさかロンドン…?あいつは丸腰なんだぞ?!)
 「ゲイナー!」
バン!
バスルーム、半透明になっている扉を乱暴に蹴り開けてゲイナーの姿を探す。
 「何処だ!ゲイナー!」
ただでさえ湯気で視界のきかない浴室で襲われたらあんな少年、即天国行きだ。
 「ゲイナー!返事をしろ!!」
周囲を見回すが、返事も無ければ姿も無い。
良くて誘拐、悪くて…その先は考えたくなかった。
 「ゲイナー!!」

 「…さ…、………す」

か細い声。
この自分が聴き逃す訳は無い。
咄嗟、声のした方に視線を向けた。
そこには湯気を放っているだだっ広い浴槽がある。
…が、それを見下ろしているゲインの緊張した表情が次第に曇っていく。
 「ここ………で…、す」
浴槽からもわもわと溢れ返る白い泡。から藻掻くように突き出た腕。
何時からこの風呂は泡なんて小洒落たもんが出るようになったんだ。
拳銃をズボンとベルトの間に差し込み、
手には替わりにシャワーヘッドを掴み上げ、浴槽まで引っ張ってくる。
そこから勢い良く噴射された冷水が、山盛りの泡をみるみる溶かしていき、
げほがほと泣きながら咳込むゲイナーの姿が現れるまで、そう時間はかからなかった。



 「馬鹿かお前は!!」

胴間声が浴室中に気持良い程響き渡る。
 「…ご、ごめ…、ゲホッ…らさ…ケホン…ッ…」
水浸しになった浴槽の中で、ゲイナーは寒さと怖さで小さくなりながら、
謝ってるんだか咳込んでるんだか良く分からない謝罪をしているのだが、
彼の正面、仁王立ちで見下ろすゲインの眉間の皺は深いままで、未だ緩む気配が無い。
 「別に風呂に入るなとは云ってない、泡風呂だってやってもらっても構わんさ。
 だが足のつく場所で溺れる馬鹿が居るか。…紛らわしい声を出すな」
そこまで云ってふう、と大きく息を吐くと、がしがしと乱暴に髪をかき上げる。
対するゲイナーは何の反論も出来ず浴槽に座り込んだまま、しょんぼりと項垂れている。
 「…ったく…俺がどれだけ………」

心配したか。

なんて柄にも無い事、云える訳無い。
中途半端に途切れた男の声に、ゲイナーが不安そうに顔を上げる。
情けなく鼻を啜るその姿は、まるで濡れ鼠のようで。
仕事の多さにささくれ立っていたゲインの心が不意に緩む。そして思わず、苦笑を漏らしてしまった。

 「…俺も入るかな、風呂」
 「え?!」
予想もしなかった突然の発言に、ゲイナーの顔が色を失う。
 「お湯、足しとけよ」
勝手にそう云い残して、ゲインがスタスタと浴室から出ていく。
 「ちょっと!僕まだ入ってるんですよ?!」
慌てて抗議するが、当の本人はさっさと脱衣所で服を脱ぎ捨てているところだった。
 「たまには一緒に入るのもいいじゃないか」
 「嫌です!」
即答したが、時既に遅く。
裸になったゲインが浴室に戻ってきた。そのまま例の小壜を手に取るとそれを逆さに向け、少量を浴槽内に落とす。
そしてお湯が浴槽の中で元通りの位置にまで溜まった頃、今度は見事な泡風呂が完成したのだった。
 「ほら、これで満喫出来るぞ、“ちゃんとした”泡風呂が」
云いながらシャワーヘッドに手を掛け、ゲインがこちらを見て笑う。
泡風呂にぶくぶくとつかりながら、ゲイナーに反論する言葉は見付からなかった。



 「いやぁ、こうして湯船に浸かるのも久しぶりだな…身体の芯まで温まりそうだ」
ちゃぷん。
ゲインが浴槽でくつろぎながら、気持良さそうに呟き、
 「なぁ、少年?」
遥か隅の方に座っているゲイナーの背中へと視線を向ける。
話題を振られた少年は、しかし無言のまま顔を背けたままである。
男二人余裕で入れる程広い浴槽が恨めしい。十分に距離を取っているとはいえ、相手はあのゲインなのだ。
じゃあさっさと自分が出ていけばいいのだが、先程ゲインに思い切り冷水を浴びせかけられたせいで身体が冷えてしまい、
今になってようやく指先まで熱が戻ってきたところなのだ。それに、泡風呂をもう少しだけ、楽しみたい。
 「……早く出てって下さいよ」
拗ねたような口調でそんな事を云われても。
 「相変わらずつれないな」
余計からかいたくなるだけなんだが。
 「あんたに優しくして何の得があるっていうんです」
ゲインが静かに笑う。気づかれないようゆっくりと移動して。
 「それもそうか。…だが」
泡の下。そろそろと腕を伸ばし、
ゲイナーの腕を掴んでグイッと引き寄せた。
 「うわぁ!?」
その反動で一斉に揺れる湯船の白い泡。バシャバシャッとお湯が浴槽から溢れ出る。
 「なにするんですか!」
簡単にゲインの腕の中へと収まってしまったゲイナーが、必死で離れようとするが、
ただでさえ動き難い湯船の中という状況を考えると、それは不利を通り越して不可能に近い。
ゆったりと浴槽の壁面に背を預けたまま、両腕でゲイナーを捕まえたゲインの口の端が微かに上がり、
不穏な笑みを形作っているのはおそらく気のせいでは、ない。
 「救出料、払ってもらってないのを思い出したんでね」
 「救出…って、…っわ!」
両脇に手を差し入れて抱え上げ、ストンと自分の膝の上に混乱中のゲイナーを乗せる。
 「風呂で間抜けにも溺れかけていた君を助けてやったじゃないか?そのお代だよ」
 「間抜けは余計です…、っ…、ん……」
遮るように、口づけ。
最初は浅く、そして次第に深く。
キスに慣れていないゲイナーは、息継ぎのタイミングが未だに良く分からない。
 「……、ふぁ…っ」
顔を捩って無理矢理唇を離し、懸命に息を吸い込む。
酸欠状態で朦朧としている頭が少しだけ回復したのだが、周到な男によって再び唇を塞がれた。
泡混じりの湯の中で、掌がゆっくりと行動を開始する。
うなじから背筋をゆうるりと撫でられ、無意識にピクッと身体が反応を示してしまう。
口内を弄んでいた舌がようやく出ていったのはいいが、今度は鎖骨に、胸に、もう片方の掌を這わされた。
 「や、」
必死でその動きを阻止しようとゲインの腕を掴むのだが、泡のせいで自分の手がぬるついて上手くいかない。
対するゲインの方はそれを利用して、ゲイナーの全身に巧みに掌を滑らせていく。
 「ちょ…っ、ぬ、ぬるぬるして気持悪い…んですってば…」
膝から降りようにも、がっちり抱き締められているので、脱出はやはり不可能に近かった。
 「…っていうか、」
(さっきからお腹に何かあたるんですけど〜…っ)
なんて云える訳無い。自分だって先程からの執拗な愛撫にしっかり感じてしまっているのだ。
 「云い掛けて止めるな」
ヌル、
内股に指を滑らせながら、ゲインが意地悪く笑う。
(し、知ってて云ってるなこの人…っ)
 「…何でも、無いです…よ」
わざと中心には触れず、その周辺をじらすように指で撫でられて、
閉じていた筈の唇の端からは、無意識に掠れた声が滲み出ていた。
 「……ん、…っく」
知らず知らずの内に前傾姿勢になってしまう身体。
愛撫を阻んでいた自分の両手は、いつの間にか男の首に廻っている。
 「…触って欲しいかい?」
耳許で囁かれる、低音。それを聴くだけで官能がゾクゾクと背筋を嘗め上げていく。
 「……っ、だれ…が…、」
弱々しく首を振って否定するが、身体はきっと「それ」を求めている。
分かっているけど、でも、この男に屈服なんて絶対にしたくなかった。
 「頑固な坊やだ」
クッ、とくぐもった笑い声が聴こえた瞬間。
ぬるついた指が、不意に胸の突起をキュッと抓った。
 「んぁ…ッ!」
浴室に響いた甲高く濡れた声。自分の声に驚いたゲイナーが慌てて口を押さえる。
妖しげに全身に拡がってゆく、ゾワリとした快感。ビクッと足の指が引き攣るように動く。
しかし達しそうになったその先端を同時にきつく握られ、解放する事は許されなかった。
 「…ゃ、……なん、で……」
敏感な乳首を強く、弱く。翻弄するように撫でられ、ゲイナーの理性がゆっくり崩壊していく。
弱々しく尋ねれば、正面。濡れ髪から水滴を滴らせるゲインが、口許に笑みを含ませこちらを見ていた。
 「もう一度訊こう。………触って欲しいかい?」
余裕綽々の声。それが物凄く癪に触るのだが、はっきり云ってそれどころでは無い。
快感を逃がす術など持っていないゲイナーは、憎たらしい男を睨みつけた後、顔を肩に埋め浅く頷いた。

降参だ。

くしゃ、と後頭部を撫でられた気配。
恥ずかしくて悔しくて情けなくて、顔なんて上げられる訳が無い。
しかしゲインは戒めていた指を解き、湯の中でそれをゆっくりと擦り上げていく。
いつもと違う、湯船の中という異質な状況。
浮遊してしまいそうになるその不安定さが、何故か心地良く感じた。
白い泡はいつの間にか乳白色の身体に纏わりつく湯に代わり、二人の身体を包み込む。
 「…や…ぁ、…あ…っ、ふぁ…」
唇からどうしても零れ落ちてしまう、甘い声。
浴室内に反響する自分の声が余計羞恥心を煽り、ゲイナーを居たたまれない気持ちにさせる。
 「……っん…、」
男の肩に乗せていた顎が思わずヒクン、と震えた。
 「…っ、な、に…?」
自分のものと密着している、熱い塊。
 「ひ……っ、ぁ……」
それがゲインのものである事を、ゲイナーが朦朧とした頭でようやく理解したのは、
触れ合って、擦れ合って。そして大きな掌によって絶頂に到達した、その時だった。






 「ゲイナー」
 「………」
 「おーい、ゲイナー」
 「………」
 「いい加減機嫌を直してくれると嬉しいんだが」

あの後。
それまでの行為が祟ったのか、ゲイナーはバスルームでぶっ倒れるという醜態を晒してしまった。
ゲインによる今回二度目の救出によりベッドまで運ばれ、気が付いたのはつい先程。

ベッドに力の抜けた手足を放り出して仰向けになり、顔には冷たいタオル。
のぼせにのぼせたゲイナーの頭の中は、現在恥辱屈辱そして気持ち悪さでグルグル回っている。

 「…もう泡風呂は絶対やりません」

念願叶った泡風呂だったが、今や親の敵程に憎い。
ベッドサイドに腰掛けていたゲインが、それを聴いて可笑しそうに軽く眉を上げる。
それを気配で感じ取ったのか、ゲイナーがタオルをはぎ取って、憤然と傍に居る男を睨みつけた。

 「あなたとも絶対、絶対一緒に入りませんからね!」

そう云ってぷいっと顔を背け再び横たわる少年を、肩を震わせ眺めながら、
 「そりゃ残念だ」
笑いを噛み殺しつつ、ゲインは残っている仕事を片づけるべく、リビングへと戻って行ったのだった。



■end■

馬鹿な子ほど可愛い。
にしてもこのゲイナーはお馬鹿だなあ。