27.



出逢う前はどうやって生活してきたのだろう。
どんな事を思いながら生きてきたのだろう。
そんな当たり前の事も、もう思い出せない。



まるで幽霊のようだったわ。
というのは、あの時部屋から出てきた自分に対するサラの率直な感想兼後日談であり、
それもそうかとすんなり納得出来てしまう程、ゲイナー自身弱っていたのもまた事実だった。
ゲインがヤーパンから姿を消して数日後、珍しく長い雨が降った。
何も考えず外でただがむしゃらに身体を動かしていたゲイナーにとっては、仕事を取り上げられる嫌な雨だ。
これからしばらくの間はこんな日が続く。梅雨、という鬱陶しいこの季節の名前を教わったのもゲインからだった。
 
 「あら、ゲイナー?どこ行くの?」
 「ちょっと畑見に」

扉を開けた拍子に、雨の粒と匂いを持ち込み駆けこんできたサラとぶつかりそうになった。
彼女はまんまと降られてしまったのか、薄桃色の髪の先からぽたぽたと透明な滴を落としつつ、
腰に引っかけていた濡れタオルを片手で掴み寄せると、油断したわと憎らしそうに口を尖らせ云う。

 「これ、結構大降りになりそうよ。気をつけて」
 「分かった。すぐ戻るよ」

彼女の助言を背中でありがたく聞きながら、雨合羽と傘のどちらにするか少しだけ迷い、
結局、出入口の所に立てかけてあった持ち主不明の傘を一本拝借する事にして、外へ出た。
背中越しに扉を閉め、一歩地面に踏み出した途端、生温かい空気の中に潜んでいる湿った粒子が肌に触れる。
外気が纏う余りの濃密さに、思い切り吸い込めばそれがたちまち肺まで濡らしていくような錯覚に陥ってしまった。
本当は、雨という天候に対してまだ少しだけ慣れない。
元々知識として持っていただけで、ドームポリスに住んでいた時分には縁の無かったものだし、
雪のような冷たさもかたさも無い。降る前に空を伝達する、風が湿気と熱をはらむ、あの独特の気配。
そして降った後、全てを洗い流された景色が見せる眩しいくらいの瑞々しさや、土や草のむせかえるような匂い。
生まれて初めて、ある意味雪よりも容赦無く全身を濡らしていくその感触を味わった時、
ゲイナーはただ茫然と立ち尽くして、間抜けにもじっと降り続ける雨を身に受けるだけだった。

馬鹿。
風邪ひくぞ。

声と共に、濡れた後頭部めがけ降ってきたタオル。
その感触が突然記憶の端からこぼれ落ちて、畦道を踏みしめるゲイナーの歩みを無意識に緩めていく。
何もない、誰もいない筈の濁った上空をふと見上げると、傘に張られている透明なビニールの薄い表面には、
ぱたぱたと賑やかな音を立てながら次々に水滴が落下し、自身の重みに負けてはツウと伝って地面へと吸い込まれていく。
そのめまぐるしい動きに意識を奪われながら、靄が掛かったいつもと雰囲気の違う道を歩く。
濡れた雑草や小さな花がたまに足首にあたっては肌をくすぐったが、我慢して黙々と歩いた。

恵みの雨だ。

不意に、声が聞こえた気がして立ち止まる。けれどゲイナーは振り切って進む。
そんな事は絶対にあり得ないと、自分が一番良く知っているからだ。
雨の音に、匂いに喚起されては無意識にこぼれ出す生々しい記憶を封じ込め、前を見て歩く。
いつから鳴き出したのか、雨に誘われたカエルの声が周囲に入り交じり、小さくこだましていた。
雨が降ればカエルが鳴き、夜になれば虫が鳴く。そんな当たり前の現象も、昔は全く見られなかった事だと以前聞いた。
壊滅的だった生態系も、人間の移住と気が遠くなる程の時間を掛けてやっと戻ってきた。壊す事は簡単だが、戻すのは本当に難しい。

雨は嫌いか?と訊かれ、好きじゃないですと正直に云ってしまったのは、ヤーパンに着いたその年物凄い豪雨に見舞われたからだった。
たった一日でほとんどの作物が駄目になった。強い風と雨によって家屋の至るところが水浸しになった。
経験した事の無かった生まれて初めての自然災害というショックも相まってそんな回答をしたのだと思うが、
それを聞いたゲインはただ、そうかと頷くだけだった。頷いた後しばらくして、だけどヤーパンの雨は優しいぞ、
と、少しだけ表情を和らげながら懐かしそうに言葉を繋げた。彼はそれ以上何も云わない。けれど旅の中でゲインは、
きっとここよりもずっと凶暴な雨を降らせる場所を知っているのだろう。身をもって。そんな云い方だった。
泣き言を云うよりまず片づけを、やるべき事を優先させる。
この土地にエクソダスをしてからようやくそう実感出来たのが、大雨に降られたこの時だった。

こういうのを体験すると、生かされてるって気がするな。

無惨に外れたトタンを脇にどかしながら、泥が跳ねるのも構わずゲインは楽しそうに作業をし、話す。
全て奪っていったものに対し、生かされている、とは変じゃないかと彼の作業を手伝いながら異議申し立てをしたのは自分だった。
その質問に対して、結局はっきりと明確な答えは得られなかったけれど、代わりに物事を一面だけで捉えるなよ、とそう云われた。

 「破壊の雨も恵みの雨だ」

彼の云った言葉の続きを、なぞるように口にする。
人間にとっては恐ろしいものでも、自然にとってそれは救いになる。
動物達の為にと住み慣れた土地を捨て、長い間ドームポリスに閉じこもった自分達ピープルは、
地球がもたらすそんな当たり前の現象に戸惑っては途方に暮れ、いつしか自然とのつき合い方を忘れてしまった。
そのつき合い方を、ゲインは教えてくれた。この土地で生きていく為、死なない為に最低限の事を叩きこむ、といった方が正しかったが。

目的地の近くまでようやくたどり着いたゲイナーは、雨が降っているのも構わずにその場で傘を畳む。
額や頬に降りかかってくる滴を避けるよう反射的に瞼を閉じてしまったが、そろそろと開けて周囲を見渡した。
農地に囲まれ林に遮られた裏の畦道から回ってきた為、目の前に広がるのは未だ開拓途中にある背の高い木々や生い茂る草ばかりだ。
けれど視線の先にはぼんやりと雨にけぶった駅が見えた。ちっぽけな駅。ゲインが旅立っていった場所だった。
いなくなったのに実感が湧かなかったのは、自分の感情を無理矢理押し込めていたからで。
いつもと同じ生活を機械的に繰り返していたのもそうやって流されていた方が楽だったからだ。でも。
降ってくる霧混じりの細かな雨によってゲイナーの髪が濡れ、普段よりもずっと茶の色味が濃くなる。
全身が濡れる事も厭わず、ゲイナーは誰もいない駅の方へと視線をまっすぐに投げ続けた。

もうすぐ梅雨がくるな。
お前の嫌いな雨ばかり降り続く季節だ。

掛けている眼鏡のレンズにまで水滴は浸食し、
視界の邪魔になったがそのままじっと立ち続け、彼に教えられた言葉の数々を思い出した。
記憶の中に溶け込んでいたそれは、今まで必死に考えないようにしてきた筈なのに、息をするくらい簡単に見つかる。
まるでひとつひとつが身体の中に馴染んでしまっているかのように。
ゲインに教えられた季節がきてしまったのに、ゲインはもういない。
雨が降って、肌が濡れても、からかうように声を掛けてくれる人はいなくて、ようやくそれを理解した。
ゲインは本当にいないのだ。ここにはもう、戻ってこない。
あの夜、ついて来るかと云われそれを拒んだのは自分だし、その事について後悔はしていない。
このわだかまりに似た感情を、ずっと持て余しているのもまた事実だとしても。
今にして思えば過ごした時間はあっという間で驚く程短いのに、その存在は嫌になる程鮮烈で、
心と身体にたくさんの消えないものを残していった。雨に濡れ重たくなる全身が、現実的な冷たさでゲイナーの欠けた隣を実感させる。

やっぱり雨は嫌いだ。
薄暗い曇天の空の下で、ちらちらと滲む灯りが目立ち始めた小さな駅を眺めながら、ゲイナーは思った。
あの人はここよりもずっと凶暴な雨の降る土地へと向かったのだろうか。
そして、自然と戦いその度生かされている、と強く感じているのだろうか。
ひとつの場所では生活出来ない因果な稼業を楽しみながら、常に流れ旅を続けて。
大きく息を吸い込めば、雨粒に混ざって微かに甘い草の匂いが胸一杯に広がった。
そのまま空に目を向けると、厚い雲を縫って光る濡れた一番星を見つけた。閉じていた傘を再び広げる。
冷たくなったゲイナーの手の中でそれはぽんと明るく弾んだ音をたてて、なんだか少しだけ救われた気がした。

ゲインはいない。

でもきっと生きている。だから自分も生きていく。自然に生かされながら、うまくつき合いながら。

生きていこう。




■end■

しばしの別離。