07.
暗く冷たい石床も、狭く黴臭い牢獄も慣れていた。
かつてエクソダスの容疑で何度かこういう目に遭った余り喜ばしくない経験の持ち主であるゲインにとって、
強制的にここに放り込まれ監禁されたものの、そのまま放置というこの処遇は充分生優しいものであったし、
今の自分なら、相手の私情の入った尋問や拷問にだって耐えられるだろう、という自信も少なからず持っていた。
それにしても、折角心の底から憎い指名手配犯を捕まえたというのに、何もせずこんな場所に放っておくなんて。
高慢なクセに単純で、肝心なところで詰めが甘いのは、本当に昔から変わっていない。
だからアイツは駄目なんだ。
あぐらを組んだまま、ゲインは手枷で拘束された自由の利かない両腕を、軽く持ち上げた。
ポリチェフからこの石造りの牢獄に移されてから、もう三日が経つ。
そのままさっさとロンドンに連れていけばいいものを、何故こんな面倒な措置をとるのか。
移動中ずっと目隠しをされていた所為で、この場所の正確な位置は把握出来なかったが、
ゴレームの飛行時間から考えて、ポリチェフやその付近に停泊しているヤーパンの天井からそう離れてはいない。
こうしている時間が長引けば長引く分だけ、こちらの味方の救援率と逃げ出すチャンスは増えるのだと知らない男では無い筈だ。
またはそれ以外に何か裏があるのか。
そんな事を考えるともなく考えていると、外から規則的な靴音が鳴り響き、それはすぐ傍でぴたりと止まった。
ゲインはうんざりした表情で視線だけを持ち上げ、残響音と共に重々しく開かれる牢獄の扉を面倒臭そうに眺める。
ギギ…と鈍く重い音を立てて差し込んでくる細い光が、千々に舞う牢獄の中の埃を映し出す。
眩しさに目を細めると、そこにはアスハムが険しい顔で、逆光の中姿勢良く立っているのが見えた。
「いい加減、謝罪のひとつでも寄越したらどうだ?シャルレ」
「そっちこそいい加減にして欲しいもんだな。座りっぱなしで尻が痛い」
投げやりな答えに、相手の神経質そうな眉がヒクッ、と小刻みに震える。
しかしそんな気持ちを悟られまいと改めて居住まいを正し、アスハムは手に持っていた鍵で牢獄の扉を冷淡に閉めた。
ガチャン、と錠の降りる重苦しい音が、ひんやりとした室内に響きわたる。
そのままつかつかと靴を鳴らし、だらしなく座っているゲインの傍まで歩いていくと、
彼は余裕を示す態度でゆっくりと優雅に腕を組み、侮蔑するように口角を引き上げて笑った。
「そんな軽口を叩ける事に感謝しろよ。本来なら喋る事すら出来なくなる程痛めつけているところだ」
「そうかい。まぁ俺がお前なら、こんな所にだらだらと放置なんかしないで真っ先に拷問室へ連れていくだろうな」
ゲインが挑戦的に薄く笑ってそう返した直後、
アスハムは眼下にあった深緑の頭をいきなり鷲掴むと、髪を引っ張り無理矢理男の顔を上げさせた。
「真っ先に。そうだ、私だってお前を捕らえて真っ先にそうしたかったさ!殺してやりたかったよ」
怒気をはらんで震える声。安い挑発に乗るところも相変わらずだ。
間近に見える薄いブルーの瞳が凄絶な怒りによって細く歪む。それは笑っているようにも見えた。
「だが私はカリンに約束したのだ。カリンの為に、こんな虫けら以下のお前でも、生かして連れて帰るとな」
「…乱暴だな、義兄さん」
「義兄などと呼ぶな!」
汚らわしい、とはねつける風に、彼は掴んでいた髪から手を離した。
その勢いで、両手を拘束され不安定なゲインの上体がぐらりと床に沈みかける。
しかしそれよりも再び怒りの火が灯ったアスハムが、黒いタンクトップの胸ぐらを力任せに掴み上げる方が早かった。
抵抗する事で得られるメリットは皆無だと分かっている為、ゲインは黙ってされるがままでいたが、
胸を締め上げられる息苦しさに思わずゲホ、と低く咳き込む。
「いいか。お前がこうしていられるのも全てカリンのお陰だという事を忘れるなよ。そうでなければお前など…」
視界の端々に散る黄金色の髪。彼女のそれも確かこんな色だった。
否、もう少し淡かっただろうか。あの透明に近いブルーの瞳も目の前の男と嫌になる程同じで、
純粋な貴族の血というのは本当に争えないものだな、と皮肉にも思った。
「…どうかな。彼女も今はお前と同じ気持ちかもな」
「…なんだと?」
「俺を殺してやりたいと、そう思っているかもしれない」
瞬間、繰り出された右拳がゲインの頬に容赦無く打ちつけられ、
油断していた彼の無防備な身体はそのまま壁の端まで吹っ飛ばされた。
的確に入った為、頭蓋が揺れるように痛み、視界がぐらついて立つ事も出来ない。
「…妹を馬鹿にするなよ。ゲイン」
荒い息と共に聞こえてくる声はぼやけて何十にも重なって、耳の奥で渦巻き沈みながら続いていく。
視界は未だ薄い光と暗い闇の明滅が続いていた。
「カリンは云ったよ。お前が生きてさえいてくれればいいとな。
あんな事をされても、…だからこれは私の純然たる復讐だ。これだけは覚えておけ」
乱暴に錠が外される。声が、靴音が次第に遠くなる。
最後の言葉が耳に入った瞬間、ゲインの意識はそこでフツリと途切れた。
口の中が錆臭い。渾身の一発を受け、床に倒れた身体は情けない事にまだ動けない。
いつの間にか指の先から全身を襲い、どっぷりと飲み込んでいく不明瞭な暗闇が忍び寄る。
この感触は何度か味わった事がある。逃げようとしてもがくのに足が竦んで、流砂に沈んで動けない。
目の前で人が何人も血を流し息絶えていくのに、どうする事も出来ずただ茫然とエクソダスが崩壊していく様を見ているしかなかった。
悪夢のような現実。そして眠りの中でもう何度となく繰り返した、現実のような。
「……様、…ン様………ゲイン様!」
唐突に呼び掛けられた柔らかな声に、ビクリと身体が大袈裟に震えた。
夢から引き戻されると、朝靄の中、目の前には心配そうに眉を寄せるカリンが佇んでいた。
「ゲイン様…良かった。随分うなされてらしたから…」
湖畔の林に潜むように定置させていたエンペランザの脚部の辺りに身体を寄せ、
軽い仮眠を取っていた筈がいつの間にか寝入ってしまったらしく、もう空は白々と明けようとしていた。
擦り切れた毛布からごそりと出した片手を小さく上げ、大丈夫、と示すゲインを見て少し安心したカリンは、
朝露で湿る草の上に広げられた敷物へ靴を脱いで上がり、長いスカートの端を軽く摘んで包むように持ってきた黒パンとチーズを、
持参した紙ナプキンの上に丁寧に置くと、傍に座りその様子をぼんやりと片膝を抱え眺めているゲインの顔を見て、困ったように笑った。
「ひどいお顔。朝食の前に洗っていらして」
「……そうするよ」
穀倉地帯であるこの地方で農業に従事する彼女と出逢い、
こうして自分の為にささやかな食事を用意してくれるような仲になるまで、そう時間は掛からなかった。
秘密裏に進めていた新たなエクソダス計画が露見しそうになり、すぐに潜入していたロンドンから行方を眩ましたものの、
ロンドン・イマの直属部隊であるセント・レーガンの執拗な追跡から逃げている途中で乗っていたオーバーマンが被弾し、
この林に身を隠していた手負いのゲインを見つけたのがカリンだったのだ。
それ以降、生活の合間を縫っては何かと身の回りの世話をしてくれる彼女を見ていると、
最初は一晩だけの軽い遊びのつもりだったゲインも、いつの間にか本気になりかけている自分を否定する事が出来なくなっていた。
甲斐甲斐しい女は嫌いだ。
そう思っていた筈なのに、彼女のそれはむしろ純粋な奉仕に近かった。
ゲインに対しても必要最低限の事以外何も訊かず、踏み込んでこない。
余りの無防備な人なつこさに、自分はお尋ね者なのだと逆に教えたくらいだ。
しかし、彼女自身自分の事を何も語らないという徹底した様子から、
ゲインは互いに詮索をしないという暗黙のルールが二人の間に横たわっているのだと、ある時気づいた。
冷えた水で顔を洗って戻ると、カリンは小さな鍋で湯をわかし、紅茶を入れているところだった。
温かな湯気が彼女の白い頬に触れる。彼女はじっと、幸せそうに手にしたカップを見つめている。
まるでピクニックだ。余りの場違いさに思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、ゲインはカリンの正面に腰を降ろした。
「いただきましょうか」
「あぁ」
にっこり微笑んだカリンが、口の中で食事の前に捧げる祈りの言葉を囁げ、パンを手にする。
その仕草は明らかに上流階級の貴族のものだった。置かれている環境がどれだけ粗末でも、
身体に染み着いた仕草や雰囲気はなかなか隠せない。ゲイン自身それを一番知る男だ。
何故そんな女がこんな場所で農作業に携わっているのか。不思議で仕方が無かったが、
唯一ヒントになりそうなものは、以前寝物語に彼女が寂しそうに口にした言葉のみだった。
『ヒエラリストは嫌いです。平等ではないもの』
その時、彼女がイマの人間、あるいはイマに属する者の娘であるという事は可能性として一番高いとゲインは考えたが、
今となってはどうでもいい事のように思われた。自分はけして一つ所には居られない人間だ。
相手に対し情を深めれば深める程、必ず訪れる別離がつらくなる。
「…これを食べたら、帰りなさい。それからもうここには来ない方がいい」
「…発つのですか?」
唐突に話を切り出したゲインを、驚いたように軽くまばたきを繰り返しながら、カリンが少しだけ首を傾げる。
その動作で白金色の髪がさらりと華奢な肩に流れた。
「頼んでいたものがようやく完成する。それが出来次第…おそらく明晩には」
「……そう、ですか」
ぽつりとそう呟いた後、カリンは手にしていたパンにじっと視線を落とす。何かを考え込むように、じっと。
訪れる沈黙を予感し、それをより恐れたのはゲインの方だった。
今まで夜を共にしてきた女性達は、お互い後腐れの無い関係を望み、
肉体の快楽の共有という利害の一致を経てつき合っていたが、カリンは明らかにそういう類のものを望む女性では無かった。
そんな女性に手を出した自分が一番悪いのだが、カリンでなければ癒す事の出来ない傷が、自分には確かにあった。
「私、幸せでした」
柔らかな声。顔を上げればカリンが優しく微笑んでいた。
「短い間でしたけど、ゲイン様のお世話が出来て。それに……あの、」
一夜を共にして頂けて。
恥ずかしそうに俯きながら小さな声でそこまで云うと、膝上に置いた紙ナプキンを指でそっと撫でる。
「お引き留めは致しません。あなた様の邪魔にはなりたくないですから」
ただ。
一言、そこで言葉を切ったカリンが、顔を上げて再び正面のゲインを見た。
儚いばかりだと思っていたが、目に映ったのは凛とした強い女性の顔だった。
「ただ、約束をして頂けませんか?」
「約束?」
こくんと頷き、カリンは瞳を細めた。言葉を探しているのか、再び小さな沈黙が落ちたが、
透明に近い淡いブルーが微かにゆらめいて光り、薄いピンクの唇がゆっくりと動き言葉を紡いだ。
「生きて下さい」
ゲイン様。
少しだけ甘えるような、可憐な声。
ロンドンからこの地方にまで流れ着き、
ぼろぼろのオーバーマンと共に林の中で倒れていた自分を匿い、世話をし、愛してくれた女性。
確かあの時も、彼女は必死に今と同じ言葉を自分に掛け続けていた。泣きながら、生きてと何度も。
「必ず、生きていて下さいね」
声が霞む。笑顔が溶ける。
蘇った記憶に引きずられながら、ようやく指先が動くようになった頃、
ゲインは石の床を力任せに爪で掻き、そのままゆっくりと上体を起こした。
そして、出ていった男が最後に残した言葉を混濁した意識の中から必死で探し出し、それを頭の中で反芻する。
『妹は、愛した男の死を安易に願う程愚かではない』
ずる、と重い身体を壁にもたせ掛け、自分の余りの浅はかさに眉を寄せ目を瞑ったゲインは、苦々しく呟いた。
「…そうだな。その通りだ」
あの時。
絶望の淵に立っていた自分を引き上げてくれたのは、確かに彼女だったのだから。
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救済の言葉を。親愛なる祈りを。