I don't mind, if you forget me.

Because,




 「ひどく真剣な顔でね、云うんです」

ひんやりとした土の質感を指の腹で入念に確かめながら、
背中斜め後方から聴こえてくる声に、畑へしゃがみ込んだまま耳を貸す。

 「やっぱり絶交させられました。って」

柔らかな焦げ茶色のそれを、未だ芽の出る気配のない種の上にかぶせ、
側に置いてあった肥料の袋に手を掛ける。それでも、止む事なく声は続いた。

 「落ち込んでいましたよ、ゲイン」
 「…落ち込むもなにも、あいつはもうここに居ないじゃないですか」

名前を出されると、嫌でも顔を思い起こしてしまい、そんな自分にうんざりした。
ヤーパンに数ヶ月間身を置いて色々と今後の対策や指示を出していた男は、
別の地域の新たなエクソダスを請け負うと、あっさりここから姿を消した。驚く程簡単に。
その時期にあったごちゃごちゃとした諍いは、時間が経った今でもこうして思い出すだけで、
自分を最低でどうしようもない気持ちに突き落とすだけの力が、悔しいけれど確実にあった。
記憶を振り切るように立ち上がり、持っていた袋を逆さにしてざらざらと乱暴に肥料を蒔く。
リンクス達がその音を聞きつけ、興味津々といった様子で畑の周囲に近づいてくる。
袋を置いて後ろを振り返ると、麦わら帽子のつばの下、アナが不思議そうな顔でこちらを見ていた。

 「ゲイナーは、まだ怒っているの?」
 「まさか!」

不自然過ぎる程の早さで否定の言葉を口走り、しまったと思った時にはもう遅かった。

 「嘘。あなたは嘘をつくのが下手だから、すぐに分かります」

この発見は、一緒に旅をした賜物ですね。
そう云ってくすくすと笑う少女の、白いワンピースの裾が夕暮れの温い風にひらりと舞う。
全てを見抜いている利口な姫君の前で、わざと表情を作る気力も失せ、やれやれと空を仰いだ。

 「…分かってますよ。いない奴の事でずっと腹を立ててるのが、どれ程馬鹿らしいかって」

云って、息継ぎ。
湿った草と土の匂いが、肺までしみ渡る。
それはどこか力強く前向きで、背筋をぴんと正してくれるような感じがした。

 「…でも、忘れます。だって旅はもう終わったんだから」

終わった事をずっと引きずっていては、先へ進めないから。
頭ではちゃんと分かっている。あれから何度もそう自分に云い聞かせた。一度だって上手くはいかなかったけれど。
紫色の瞳がじっとこちらを見据えている気配。同じように見返す事は出来なくて、
視線を遠くの山の稜線へと僅かにずらしたままそう告げた。声に出して云う事で、それは少し本当になる気がした。
けれど彼女は黙って細い首を小さく横に振り、否定を示す。

 「違いますよ、ゲイナー」
 「え?」
 「忘れるんじゃなくて、許してあげるんです」

視線が合う。アナが幼さの残る笑みを口許に綻ばせる。
きっと今、自分はすごく変な顔でその笑みを見つめているのだろう。
そうすればね、きっと大丈夫ですよ。
無邪気な笑顔で、彼女は云った。



確信に満ちたその言葉を、なんだか良く分からず釈然としない気分のままで受け取る。
実際、選択肢としてそれを目の前に突きつけられる日が来るなんて、この時は全く考えもしなかったのだ。



 「随分焼けたな」
 「……」

堀ったばかりで土にまみれた歪な形の芋を、手の中で遊ぶように転がして。
収穫の為、土が掘り返されそこらじゅうに作物が散乱している畑の脇道をゆっくりと歩きながら、男が云う。

 「それに逞しくなった」

少し髪が伸びていた。目尻のところに薄い傷がついていた。
ヤーパンは秋なのに、季節外れの薄汚れたあの白くぶ厚いコートを羽織って、ゲインは今目の前で穏やかに笑っていた。

 「…なんで、あんたがここに居るんですか」

落ち着いて、努めて冷静さを装って口に出した言葉は、頭の中で事前に三度は繰り返した。
本当は腰が抜けそうなくらいびっくりしていた。だけど今ここでそんな醜態を晒す訳にはいかない。
何の為の年月なのか、何の為に離れていたのか、全部台無しになってしまう。それだけは避けたかった。

 「…なんで戻ってきたんですか」
 「ゲイナー」

微かにざらついた、彼特有の声で名前を呼ばれて、全身がますます緊張で強張る。
この力を維持しなければ、きっと自分は足元から一気に崩れ落ちてしまうに違いない。

 「もっと歓迎してくれよ。何年ぶりだと思ってるんだ」
 「知りませんよ、だってあの時僕云ったでしょう。あんたの事は全部忘れるって」

それを聞いたゲインは少しだけきょとんとした表情になり、その後盛大に破顔した。爆笑したのだ。

 「ゲイン…!」
 「あぁ、そうだった。うん。俺はお前に絶交されたんだったな」
 「それ!そもそも何ですか絶交って!アナ姫にも云ったんでしょ、聞きましたよ」

許してあげるんです。と、遠い夏の日彼女はそう云った。
どうしてだか、他の色々な事は記憶からこぼれてしまっても、この言葉だけはずっと胸の奥に残っていた。
ようやく笑いの発作が収まったゲインは、愉快そうにこちらを見おろすと、で?と次の言葉を催促してくる。

 「え?」
 「忘れてないじゃないか。俺の事も、俺の名前も」
 「……ッ」

いつの間にか近くに来ていた男は、手にしていた芋を、
返答に詰まっている自分のすぐ横に置いてあった収穫袋の中に、コトンと落とした。

 「簡単に忘れられるもんか」

やたら確信めいて笑う相手に対し、ぶつけてやる言葉ひとつ浮かばない。
こんな時、あの頃の自分はどうやって応戦していたのだろうか。
何故かこういう記憶に限って、都合の悪い事にすぐ口から出てこない。

 「…とにかく、僕にはやる事が沢山あるんです。邪魔しないで下さい」

結局無視する事を決めた。
これ以上この男と一緒の場所にいてはいけない。話をしてはいけない。本能が警鐘を鳴らす。

 「残念だがそれは出来ない。お前に用があって来たんだからな」

きっと良くない事が起こる。耳を貸してはいけない。
顔を上げずに、大きく膨れ上がった収穫袋をきっちりと紐で結ぶ。

 「オーバーマンが必要なんだ。腕のいいパイロットも」

静かな、けれどはっきりとした声は、鼓膜を震わせ全身にしみた。
顔を上げてはいけない。頭では分かっているのに、身体がゲインの味方につく。

 「…あの時も云ったでしょう。行ける訳ないって」
 「云ったな」

傾く夕陽を背にしたゲインが、コートのポケットに手を突っ込む。
懐かしい仕種、彼の癖。不真面目なようでいて、こちらに向ける眼差しはひどく真剣で、
以前と少しも変わらないそれに、思わず緩く笑いそうになった。トンボの小さな群れが脇を通り過ぎていく。
秋茜だろうか。ヤーパンの景色とまったく溶け合わない男を見ながら、口を開く。やっぱりこの人は、外の人なんだ。

 「…ゲイン、この畑今年初めてものになったんです。台風にも負けないで、ちゃんと作物も育ちました」
 「ゲイナー」
 「色々ね、肥料も考えて混ぜたりして、みんなで一生懸命育てたんですよ」

言葉を遮られないように喋った。
次に訪れる沈黙が、その後に告げられるゲインの言葉が怖かったからだ。
逃げるように喋り続ける。彼の知らないヤーパンの自然、気候、いい所、人々の素晴らしさ。楽しそうなふりをして。

 「お米も今年は豊作みたいで、サラの作る炊き込みご飯美味しいんですよ。そうだ、僕海で泳げるようになったんです…それに」
 「それに、あの時と今じゃこんなにも状況が違う」

蒼碧色の両眸を細めて話を聞いていたゲインが、
流れ続ける言葉をいきなり阻止し、主導権を奪い取る。そして勝手に続けた。

 「お前の置かれている状況も変わっているんだ。違うか?」

反論しようとして、結局適切な言葉が浮かばず、口を噤む。
この数年でヤーパンでの暮らしはずっと楽になり、それは見違えるようだった。
無理矢理引っ張り出されていたガウリ隊としての仕事はぐんと少なくなり、こうして暇を見つけて畑に来られるくらいに。
ここが好きだった。巡る季節に翻弄されながら、またたく間に一年が過ぎていくこの土地が。
生まれ育った場所と気候も環境も全然違うのに。どうしてだか懐かしかった。
その気持ちは本当だった。それなのに。

 「…だとしても、僕は」

あの時のエクソダスを、忘れた事は無かった。

 「ゲイナー」

風でたなびくコートの厚い裾が、視界に入る。
ゲインの声に、存在に、過去へと意識が引き戻される。こんなにも容易く。
現状を望む保守的な理性は、これ以上聞きたくなくて耳を塞ごうと思っているのに、
かつて様々な事を経験した身体は、ぼんやりと立ち竦んだまま次の言葉を待っていた。

 「俺と来い」

ずっと聞きたかったその言葉を。

 「……嫌な人ですよね、あんた」

俯いて顔を上げられない事を誤魔化すように、爪先で土をならす。
胸の奥に潜んでいた嵐の正体は、突き詰めれば簡単で、そんな簡単な事も分からずにずっと腹を立てていた。
許す事なんて出来ないと、そう思っていた。アナの言葉もあの頃は理解出来なかった。全てをゲインの所為にして。

 「これみよがしにコートなんか着て。暑いのに馬鹿みたいだ」
 「あの時は突き返されたからな。今度はちゃんと受け取れよ」

ざく、と土を踏みしめる音が聞こえる、それはどんどん近くなる。
それでも後ずさる事は出来ず、顔も上げられないから相手がどんな表情をしているのかも分からなかった。

 「本当に、嫌な人だ。僕は行くなんて云ってませ…」

云い終わるより早く、頭の上からばさりと何かが降ってきた。
重たいそれはゲインのコートで、彼と、彼が旅をしてきた世界の混ざり合った匂いがした。

 「お前は嘘をつくのが下手なんだよ」

微かに笑いを含むくぐもった低い声が、かたい布越しに伝わる。
温かで、何も見えない真っ暗な闇の中、我慢出来ずに少しだけ泣いた。

 

 

◆end◆

Because, you never forget me. I never forget you.

@奈良美智