20.
早く終わればいいのに。
闇の中に溶ける吐く息の、余裕が無いのはいつも自分だった。
「無かった事にして下さい」
そう云って、この行き詰まった関係から先に逃げようとしたのも、自分だった。
「………ッ、ぁ」
どれだけ嫌だと拒んでも、ゲインはそれを止めない。
強引な乱暴さでもって容赦無く肌に這わされる大きな掌。
多分彼は怒っている。こんな行為をしながら静かに、けれど確実に。
鍵も掛からない寂れた仮眠室で、いつ誰が来るかも知れないそんな危険な空間で。
寝台から降りて立ち上がった直後、唐突に切り出された言葉を聞いたゲインは、
神妙な顔つきのまま何を思ったか、そっとこちらへ顔を寄せてきた。まるで機嫌を窺うように。
何故そこでキスなんだ、と。けれどもう反抗する気も起きない。何度となくされた。新鮮さなんか欠片も無かった。
それなのに、その蒼碧の両眸が近づくたび息が触れあうたび身体の芯がぎくりと緊張する、そんな。
「どこから?」
「…どこから、って」
「無かった事にしたいんだろ。どこから」
唇、顎、首筋、乾いた熱さが移動する。味わうように、ゆっくりと。
眠りから覚めて間もない男の声は、いつもよりずっと掠れて密やかに甘い。
「…だって、変じゃないですか。こんな、の……おかしい」
僅かに後ずされば、寝台の柱、ひんやりとした金属の感触が背中にぶつかった。
これでは、質問に対する答えにまるでなっていない。
頭では分かっているのにゲインの動きにばかり気を取られ、意識がそちらに引きずられた。
「変だと思っているのに感じるのは、おかしくないのか?」
揶揄を含んだ低い声音の奥に、何処か不穏な気配を感じ取る。
巧みな切り返しに対抗する言葉を探していると、ゲインはあっさりと次の行動を起こした。
その鮮やかさから、自分からの返答なんて最初から期待していなかったのだと理解する。
左手で軽く身体を抱くように、寝台の柱へ更に強く押しつけられ動きを封じられたかと思うと、
もう片方の手が器用に上着をまくり上げてくる。手慣れている。何もかも。
「そういう、事を云ってるんじゃないんです…!ちょ…っ、」
「気持ちいいだけじゃ、不満かい?」
掌が、指が、腹から胸にかけて的確に敏感な部分をなぞった。
その弱い刺激は、背筋の辺りに妖しい感覚となって溜まり、すぐにぞくりと全身へ拡がる。
心を置き去りにした馬鹿正直な身体の反応に苛立ちを感じながら、懸命に太い腕をはねのけようとした。
こんな事は間違っている。もう絶対に流されないと、決めたのだ。
「だからって、こういう事ばかりするのは…っ…う、わ」
服の中を悪戯にまさぐっていた手が突然するりと出ていく。
あっさり解放されて安堵したのも束の間、狙いを変えてきた動きに小さく息を飲んだ。
「い……っ!…」
下腹部からズボン、そこを布越しに掌で擦られ、
驚いて身体を捻るが、がっちりと抱きしめられて動く事もままならない。
不規則さを増す呼吸、密着する身体。性急なそれを阻む言葉を、必死に頭の中で組み立てようとした。
けれど逃げ場はいつの間にか全て塞がれ、闇の中で理性を見失う。ホックを外され、ジッパーの降りる無機質な音が耳を嘗める。
途端ひやりと冷たい外気が肌に触れ、羞恥に顔が熱くなった。
もう嫌だと、突き飛ばして逃げる事だって出来る。本気になれば。
この男は本当は、それくらいの逃げ道を、必ず用意してくれている。
そうしていつも一歩引いて、余裕を見せつけ自分を抱く。それが心底狡いと思った。
「……っ、…?」
いつの間にか、頬の傍にあったゲインの息遣いが消えていた。
慌てて視線を落とすと、深緑の髪が何故か下腹部のあたりに見える。
突然、直接吹きかけられた熱い吐息に訳が分からずびくりと身体が大きく震えた。
その場に屈みこむような姿勢で、彼が露わになったそれに唇を這わせてきたのだ。
「…!」
「無かった事にするってのは、全部忘れる事だぞ。ゲイナー君」
「………ッ」
喋るたび唇から直接伝う、振動。
そのまま舌が、ぬるりと滑る。口の中に含まれて、唾液が絡まる。
緩慢に、けれど確実に追いつめるような愛撫。軽く吸われ、それだけで達しそうになった。
ゲインは自分が陥落するのを待っている。そして望んでいる。言葉の撤回を。だからわざと、こんな事をする。
「出来るのか?」
「………っ、く」
歯を食いしばって、漏れそうになる声を噛み潰す。
抵抗の意を示す為、引き剥がそうと掴んだ緑が、俯き微かにずれたレンズ越しに、薄く滲む。
こんな事をしているのに、ゲインの声はひどく落ち着いていた。
熱に浮かされるような最中でさえ必ず頭の片隅に冷静な部分を残し、
腕の中で本気で逃げようともがく自分の全てを、いかに崩すか考え抱くような男だ。
彼は純粋に楽しんでいる。ゲームのような気楽な行為と関係を。
そして自分はつき合わされる。一人負け続けるだけで意味のないこの関係を。
「わ…すれ、られます……っ」
けれど。
先の見えない不毛な関係、
何も生み出さない無益なそれをずっと断ち切れず続けてきたのは。
「全部?」
「…ぜんぶ…っ、あんたの事……ッ、全部…!」
嫌だと喚いても結局意識が飛ぶまで抱かれ続ける、
そんな自分に嫌悪しながら、それでもずっと彼の部屋に居続けたのは。
「……」
ゲインが笑った。
表情なんてこの闇の中では全く見えなかった。
ひっそりと肌に触れた緩い吐息で、そうだと分かった。
そして、聴き取れない何か短い言葉を小さく呟いた後、
戯れに弄っていた先端に先走りで濡れた舌を絡みつかせ、口に含むと強引に追い上げにかかった。
声が出そうになった口を咄嗟に片手で覆う。
指の隙間から漏れる、吐く息の湿った熱さが自分の顔の辺りを掠め、それは現実感の無い目眩をもたらした。
実際、今、ゲインも自分も馬鹿な事をしていると思う。
こういう関係を無しにして欲しいと願ったクセに与えられる快感に溺れる自分と、
分かったと了承する訳でも駄目だと否定する訳でも無く、ただその場限りの快楽で繋ぎ留めようとするゲインと。
わざわざこんな場所で、こんな状況で、高いリスクを背負って。
ゲインが何を思っているのかは知らない。考えたくない。
けれど、馬鹿らしいと理解しながら、反復し続ける事によってしか得られない快楽という安定を、
彼から直接突きつけられるそれを、自分は身体で知ってしまった。呆れる程何度も貪って。心を置き去りにして。
この歪な関係は、何処かで駄目になる。
きっといつか破綻する。もう既に破綻してしまっているのかもしれない。それが急に怖くなった。
だから終わらせたくなった。自分の言葉で、自分から。
「………っ、ん…」
ぐらりと、身体が前に傾ぐ。
きつく目を瞑って、全身を襲う射精による快感を必死にやり過ごそうとする。
しかし男はそれを許さないように、更に深く搾り尽くすような愛撫を続けた。
それは嫌でも相手の口の中に精を放ってしまった背徳と罪悪を感じさせる。
けれどもう、それすら甘い刺激に変わってしまう。
足許がふらつき、両膝からすうっと力が抜けた。地面の感覚がもう良く分からない。
押しやるように突っ張っていたゲインの髪を掴んでいた手は、まるで縋るように引き寄せる形になっていた。
凭れた背中に触れるひんやりとした温度は、随分と前から感じなくなっている。
彼はまた、こうして再び手の中に落ちた自分を、闇の中で笑っているのかもしれない。
そんなゲインを、いっそ嫌いになれたらいいのに。忘れられたらいいのに。
身体に残した痕も、匂いも、感触も、熱さも、声も、全て。
こうして焦り、行き詰まり、悩んで思う事は紛れもない真実なのに、
それとは全く正反対の事をひっそりと願う自分も確かに存在していた。それが、たまらなかった。
塗装の剥がれた金属の柱に背中を押しつけたまま、ずるずると力無く崩れ落ちる。
その場に片膝をついて屈み込んでいた男の姿が正面すぐ近くに見えた。目が合う。
それが合図のように大きな手が頭を引き寄せ、強引に唇を重ねられる。
つい数十分前に交わしたそれと似ているのにまるで違う、そんな苦いキスだった。
本当に、忘れられたら。でも。
頭の片隅で、ひっそりと願う。
ずっと、終わらなければいいのに。
■end■
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一度知ったらもう壊れるまで。