10.
ひとしきり泣き終えた後、少女は力尽きたようにそこに丸くなり、いつの間にか眠ってしまった。
この部屋の所有者であるゲイナーは、すぐ傍ですうすうと規則的な寝息をたてている小さな少女を、
弱々しく眉を寄せ、途方に暮れた表情で見下ろしている。
「…アナ、寝ちゃったの?」
一目見ればそれは明白だったが、確認しないではいられなかった。
遠慮がちにそっと声を掛けるが、名を呼ばれたアナからの返事はもちろん無い。
『お父様、ありがとう…!』
涙に濡れた声が、うっすらと耳の奥に蘇る。
全てが終わった後。急かすようにゲイナーの手を引き部屋へ戻り、
ウルグスクへと回線を繋げたアナを待っていたものは、勘当という容赦無い言葉だった。
初めは愛娘との再会に柔らかく相好を崩していたメダイユ公爵だったが、
彼女の口から「お取り潰し」という単語が出た途端、態度が一変して厳しくなった。
それからずっと、頑なに背中を向けたまま、そして通信は強制的に切断されてしまったのだ。
どうして。
ゲイナーは、ふつりと糸が切れたように泣き出したアナの隣で懸命に通信を再開しようと試みたが、
ヤーパンの天井がポリチェフから次第に離れていっているのか、電波が極端に悪くなっている上、
向こうが一方的に回線を切ってしまった所為で、再び彼女に父親の声を聴かせてやる事は絶望的だった。
どうして。
勘当だなんて、ひどい事を。
アナは何も悪くない。
悪いのは、甘い言葉を使って彼女を外の世界へ誘い出し、まんまとエクソダスの人質に仕立てあげたゲインだ。そして自分だ。
何も知らなかった。けれど云われるままそれに加担してしまった。ゲイナーは、記憶と共にせり上がってきた苦い後悔を飲み下す。
責められるべきは、自分たちなのに、それなのに。どうして。
『ありがとう…っ、お父様…あたし…メダイユの娘として立派にやります!』
どうして彼女は泣きながら、それでもメダイユ公爵に対し感謝の言葉を口にしたのか。
勘当を云い渡されても尚、メダイユ家の一人として新たに確固とした決意を口にしたのか。
ゲイナーには、大きなテレビスクリーンに取りすがってわんわんと泣き続けるアナの気持ちが、理解出来なかった。
「…どうしよう、起きないな。これは」
部屋の二階フロアを勝手に間借りしているアデットに助けを請おうかと、一瞬そちらをふり仰いだが、
先程から呻くように聴こえていた、寝れないうるさいなどの文句はいつの間にか消え、代わりに微かな寝息が上から降ってくる。
熟睡だ。こうなると、何度こちらが起こそうとしても全く微動だにしないし、運良く目が覚めたとしてもうるさいと蹴り落とされるのがオチだろう。
そんな予想を難なく立てられるくらいには、アデットと親しくなってしまった自分に深い溜め息を吐きつつ、
ゲイナーは、畳のスペースに乱雑に積み上げられた衣類の山から、音を立てないよう注意して掛け布団を引き抜き、
丸くなっているアナの上に、それをそっとかぶせた。なんだかこんな事をしている自分の不可解さに、思わず苦笑してしまう。
そんな彼の背後から、今まで大人しく隅の方に控えていたリンクス達が、眠りについた主人の周りを心配そうにくるくると囲む。
「お前たちもここで寝るか?」
云いながら、アナの身体に掛けてある布団の上にもう一枚ブランケットを掛けてやると、三匹は心得たようにしゅるりとその中に入っていった。
そのまま、散らかっている周囲を片づけていたゲイナーは、通信を切られclose表示になったまま何も映さないスクリーンの前に腰をおろすと、
そろりとスイッチに触れ電源を落とした。完全に閉ざされた回線に、ちくりと罪悪感が胸を刺す。
「…ごめんよ、アナ」
小さく呟いて、眠っているアナの方を振り返る。
オフモードに切り替わり、淡い光を放つ画面に柔らかく照らされた幼い少女の紅潮した頬には、涙の跡が薄く残っていた。
ゲイナーの中で、初めて会った時からずっと、その印象は変わらない。
好奇心旺盛で、とてもしっかりしていて、利発で。
今回だって、敵のオーバーマンに捕らえられたというのに、恐れる事無く、逆に相手を怯ませる程の演説をやってのけた。
この時、本当は痛いくらい自分の立場を理解している方なのだと、初めて知った。
そして先程この部屋で見せた、本来の年齢を思い出させるような、幼い素顔、表情。
泣きじゃくるアナを、慰める事も出来なかった。何を云えば、どうすればいいのか分からなかったのだ。
うかつに心の奥に踏み込めば、傷つけてしまいそうで。他人に干渉するのはやっぱりまだ少し怖い。けれど。
長い時間逡巡した後、そろそろと伸ばしたゲイナーの腕は、再びそこで躊躇して、
ようやく彼女の小さな頭に掌を乗せると、指の腹でその碧の髪にぎこちなく触れた。
この行動の意味なんて、本当はよく分からない。触れたその後何をすればいいのかも。
けれど何故か、こうしたいと思った。
「………ん、」
夢を見ているのだろうか、眠ったままでアナの口許があどけなく綻ぶ。
おとうさま。
と、舌足らずで幸福な寝言を聴きながら、ゲイナーの視線は自然、
レンズ越しに映る大きな本棚と、薄暗いその中にひしめくように並んでいる学術書や様々な本に向けられた。
「…父親、か」
無意識に、けれど口に出した途端、思考が静かに過去へと沈澱しそうになる感覚。
それから逃げるように慌ててアナから手を離し、思わず眼鏡を押し上げる。
関係ない。父親なんて、もう自分には居ないのに。
「勘当?」
湯気のたつマグカップを両手に包み込みながら、ゲイナーは返ってきた男の言葉に無言で頷いた。
カップの中には、牛乳の割合が少しだけ高いコーヒーがたっぷりと注がれている。
あれから、最小限の荷物だけを持ち、室内の明かりを消して部屋を出た彼がまず最初にしたのは、
アナ姫を探しているであろう、彼女の世話係であるリュボフを見つけ出して、事情を説明する事だった。
ママドゥと共にユニット内を捜索していた彼女となんとか合流し、経緯を話すと、リュボフも信じてくれたのか、
眠ってしまったアナを(一応)教師が住んでいる自分の部屋で一晩預かるという申し出をすぐに了承してくれた。
その後、自分の寝床を確保する為仮眠室のあるバッハクロンへ向かう途中、
キングゲイナーの様子を見ておこうとデッキに立ち寄ったのだが、奥の武器庫に薄く明かりが灯っている事に気がついて、
興味本位でついふらりとそこに足を運んでしまったのが悪かった。結果ゲイナーは、中で武器の整備をしていたゲインに見つかり、
暇だったらしい彼の話し相手を、なんとなくさせられる羽目になってしまった。
「芸術公爵も、なかなか立派な父親じゃないか」
工具箱に座り、手に掲げた愛用のスナイパー・ライフルの調子を確かめながら、ゲインが笑う。
その感想を聞き、彼の隣の木箱に腰掛けていたゲイナーの眉が薄く曇った。
まただ。この感じ。
「どこが立派なんですか。実の娘を勘当したんですよ?エクソダスしたからって」
「先の事をな、きちんと考えてる」
「先?」
銃腔を覗いて少しだけ顔を顰めたゲインは、持っていた長銃を床に設置してある作業台に立て掛ける。
「万が一、メダイユ公爵家がお取り潰しになっても、姫様にまで害が及ばないようにな」
「……あ」
家が滅ぼされたとしても、勘当された彼女は遙か遠くで生きていく。
生きていればメダイユの血は続く。
その為の。
だから、アナは公爵に感謝を、そしてゲインは立派な父親だと感心した。
「……でも、だからって僕らがした事はフェアじゃないでしょ」
なんとなく、面白くない。
自分にはどうしても理解出来なかったものを、話を聞いただけのゲインにあっさり解釈されてしまった事が。
嫉妬、とかそういう類のものとは少し違うと思う。おろおろと途方に暮れていた自分が馬鹿みたいだと思ったのだ。
温かいコーヒーを啜りながら、隣でぶっきらぼうにそう呟くゲイナーを、ゲインが立ち上がりざまちらりと横目で見下ろす。
「祭りを見に行こうだなんて、騙してアナを人質にして」
「人聞きが悪いな、ゲイナー。俺は騙してなんかいないぞ」
様々な物が雑多に詰め込まれている薄汚れた棚から、防錆油入りのスプレー缶を選び取り、
戻ってきたゲインが再び工具箱の上に腰をおろす。さも当然、というような男の云い方に少年が不審な顔を向けた。
「エクソダスは祭りだからな。それに姫様は外の世界を見たがってた」
だからお誘いしたのさ、とスプレーを銃の外形に満遍なく吹き付ける。
一人分しかコーヒーを淹れてこなかった自分に対する、ささやかな嫌がらせだろうか。
ゲイナーは思わず持っていたマグカップに掌で蓋をした。
「…僕は、望んでなんかいませんでしたよ」
外の世界なんてまるで興味が無かったし、見てみたいとも思わなかった。
不満が無い訳ではなかったが、この人工的な囲いの中で一生を終えるのだと、漠然とそう思っていた。
両親が殺される、あの時までは。
揺らいでいたのは確かだ。
ただ、ここから出て行く力が無かっただけで。
「でも、楽しいだろ」
穏やかな声が耳に落ちる。
顔を上げれば、ゲインがこちらを見ていた。口許にはしっかりと確信的な笑みを浮かべて。
「…」
「だからお前はオーバーマンから降りない」
「キングゲイナーです」
真剣な顔で律儀に訂正するゲイナーに、ゲインは思わず吹き出しそうになるのを堪える。
そのまま、用を果たしたスプレー缶を床に置きながら続けた。
「厳しい旅の中で、それでもピープルが夢見る気持ちを忘れずそこから楽しさを見い出す事、それがエクソダス成功の秘訣だ」
「理想論ですね」
「何事もな。しかしその気持ちを失えばすぐ駄目になる」
あっという間だ。
まるで一人ごちるように最後の言葉を呟いた後、再び黙って銃身を拭き始めた男の横顔を、
ゲイナーは気取られないようそっと瞳だけでのぞき見る。
ゲインさんは、
しかし問い掛けようとした言葉は、声にならずに喉の奥で燻り消えていった。
どうしてエクソダスをしているんですか。
あなたは何処から出て行きたかったんですか。
二人の間に訪れた沈黙をくぐるように、銃を磨く油の匂いがふわりと漂い鼻先を掠めていく。
いつの間にか嗅ぎ慣れた、彼の身体に染みついている、ゲインの匂いだ。
視線を膝の上のマグカップに落とす。とっくに冷えた琥珀色の液体を囲む白い陶器の感触を指でなぞりながら、温もりを探そうとする。
「…もし、駄目になったらどうするんです」
「それは無いな。俺がいるし、なにより負けず嫌いの誰かさんが失敗なんか許さんだろうさ」
からかうように云いながら、ゲインの掌がぽん、と頭上に降ってきた。
薄茶の髪を軽く混ぜるように、けれど優しく撫でるその動作を、ゲイナーは何故か拒む事が出来なかった。
鼓動が速くなる。耳からじわりと熱くなる。
「これ」だ。
多分、自分はアナにこうしてやりたかったんだ。
大きくて温かな掌、撫でられると不安がゆっくり消えていく。
子ども扱いだと腹が立つ反面、悔しいけれどすごく安心する。
大丈夫、と。
示すようなそれを。
途端、ゲイナーはひどく困惑した。
自分が、無意識だったにしろアナ姫に対しこの男の行為を模倣しようとした事が、何故か異様に恥ずかしかった。
俯いて黙りこんでしまった少年に、ゲインが首を傾げる。いつもなら、憎まれ口のひとつやふたつ、速攻でぶつけてくる筈なのに。
「おい、反論が無いと寂しいじゃないか」
云いながら、ぐりぐりと髪をかき混ぜる手の力を少し強くすると、俯いたゲイナーのまるい頭はされるがまま更に下へと項垂れた。
「ゲイナー?」
「……だから僕は、あんたが嫌いなんですよ」
相手には絶対に聞き取れない程であろう小さな声で、本音を吐き出す。
嫌いだ。
勝手に自分の心の中に踏み込んできて、鮮烈にその存在を、記憶を灼き付けていく。
乱暴なのに不快じゃないやり方で、忘れられなくする男が。
そしてそんな男にまんまと影響されている、馬鹿な自分が。
■end■
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ゲインに無意識に感化されるゲイナー。
それに気づいて唖然としたら可愛いなーと思いました。