16.
最低だ。
起き抜け一番、ゲイナーの頭の中に浮かんだ言葉は、ただ簡潔にそれだった。
身体が痛い。頭が重い。指一本動かすだけでも膨大な労力が要る。
原因は、嫌になる程自覚していた。むしろ当たり前の結果なのかもしれない。
どんよりと暗雲たちこめ始めた寝不足気味の思考を強引に元へ戻しながら、のそりと起き上がり、更なる激痛に沈没した。
「………」
何度経験しても、慣れる事の出来ない痛み。
無茶苦茶だ。ゲイナーは薄く涙を溜めながらそろそろと息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
早朝の空気は静かでよそよそしい程に冷たく、けれど今はそれがかえって気楽だと思った。
無意識に握ってしまっていたシーツは微かに湿り気を帯び、
情事の匂いが未だこびりついていて、更にうんざりとした気分にさせられたけれど。
(…洗濯…しとこう…)
どんよりと沈んだ意識を切り替えるべく深呼吸をひとつして、再びそろりと、今度は注意深く起き上がる。
ベッドから降り立ちシーツに手を掛け、それまでの余韻を払拭するように一気に引き抜く。
疼くような痛みがゲイナーの全身をびりっと走っていくが、
彼にしてみれば早くこのシーツを自分の前から取り払いたい気持ちの方が強かった。
汗やら何やら染み込んだそれは、生々し過ぎて触れるだけで酔いそうになる。
乱暴にそれを洗濯機に放り込んだ後、ざっとシャワーを浴びた。
べたつく身体を洗い流しながら、降ってくる温水が排水口に消えていく様子をぼんやりと見つめる。
昨夜はなんだか寝つけなくて、そうする内にゲインが戻ってきて、
確かエクソダス中のユニットの活用の仕方で口論をしていた筈なのに、気づけば二人してベッドの中に居た。
馬鹿みたいだ。未だ男の舌の感触が残る肌を厭うように、シャワーを止めて浴室から出る。
あの時、濃緑の髪と隆起した肩の間から途切れかけた意識で覗いた窓の外はうっすらと明るかったから、
きっと彼は一睡もしないまま呼び出され、また何処かへ行ってしまったのだろう。けれど同情する余地も無かった。
「……っ、た…」
シャワーの温水を浴び、身体が熱を持った所為でぶり返してきた痛みに眉を寄せ、洗面台の引き出しを乱雑に漁る。
それにしても。
何が悲しくてこんな事をしなくてはいけないのだろうか。
捜し当てた、軟膏の入ったチューブを握りしめるゲイナーの薄茶色の瞳が、羞恥で歪むのを通り越し、冷ややかに据わっていく。
以前似たような状況に陥った時、事の最中よりも派手に喚き暴れて抵抗したものの、
それでもゲインに無理矢理組み伏せられそこに薬を塗りつけられて、挙げ句みっともなく泣いた忌まわしい過去を思い出したのだ。
「………最低だ」
今日は朝からなにもかも。
一日の始まりから救いようの無い底辺まで落ち込みつつ、それでも着替えを済ませて学校へと赴く。
この部屋のあるユニットはエクソダスの主要機関であるバッハクロンには近いが、
一般のピープルが多く住んでいるような学校のある居住ユニットからは少し離れている。その為早めに出る必要があった。
結局自分も彼につき合わされたおかげで、数時間程度しか寝ていないような気がする。
ふわふわする頭でそんな事を考えながら、ぎこちない足取りでなんとか教室まで辿りつき、
身体に負担を掛けないようそろそろと着席すると、じきにサラもやって来た。
ぐ、と途端に締め付けられる心臓。それはかつての憧憬とは程遠い、誤魔化しきれない罪悪感だった。
「おはよう、ゲイナー」
「あ、お、おはようサラ」
「眠れなかった?」
射抜くようにじっとこちらを見つめる青い瞳に、図星をさされ、返答が遅れる。
「…え?」
「なんだか疲れた顔してる。ゲームのし過ぎは身体に毒よ」
しかし彼女は授業に使うノートと教科書を手際よく机の上でトントン、と揃えながら、眉を軽く上げて悪戯っぽく注意をしただけだった。
背筋を伝うヒヤリとした冷たい汗を感じながら、やたらと大きくなった自分の心臓の音を耳許で感じる。
「う、うん。…気をつけるよ」
逃げ出したい程の罪悪感と露見する恐怖を抱えながら、
それでも彼女に逢いたくて学校に来てしまう自分が、自分の浅ましさがどうしようもなく嫌になる時がある。
頭が上手く働かない、割り切る為の勇気も嘘も用意出来ない、こんな日は特に。
「さ、授業が始まるわ」
落ち着いたサラの声。それを聴きながら、ゲイナーも慌ててカバンから教科書を取り出した。
その動きで、ふわりと鼻先を掠めた自分のボディーソープの匂いが、ひどく後ろめたいものに感じた。
昼休み。
いよいよピークになった頭痛と眠気に負けて保健室の扉を叩いたが、
満室だから余程体調の悪い生徒以外看られないの、と保健医にあっさり追い返され、
元来た廊下をゲイナーが力無く歩いていた、そんな時だった。
突然、聴き慣れた声が耳に飛び込んできて、全身が硬直した。
開け放たれた窓の外。そろそろと窓枠に手を掛け、目を細める。
ゲインだ。
破損した居住ユニットの下層部の方、広場になっている所で愛機のガチコに乗って、
同じくシルエット・マシンに搭乗したガウリ達と何やら話をしている。
何事も無かったように、平然と、請負人の仕事をこなしている彼を目にした途端、
ゲイナーの中で正体不明の感情が胸の奥底にもやもやと広がった。
こっちはあの男の所為で最低で最悪な状態だというのに、どうしてそんな冷静な顔で、真剣な話をしていられるのか。
窓の外から見える彼に対し、理不尽な怒りが沸き起こってくる。それでいて反比例するように、昨晩の事が如実に思い出されてしまうのだ。
あの硬い緑の髪、クセのある鼻梁、いやらしい指と唇、濡れた舌、嫌だと云っても止める事なんてしなかった。
凶悪で意識が吹き飛びそうな痛みと快楽を、無理矢理ねじ込んだ。あの。
「………っ」
腰の辺りにぞくりと厭な感触が広がり、それを振り切るように窓から視線を引き離す。
そのままゲイナーは釈然としない気持ちを胸の奥に残し、きびすを返して教室へ戻った。
結局午後の授業も惨憺たるもので、夢とうつつの狭間をさまよいながら、
それでも無事に終業の鐘を聴き、ほっと安堵のため息を吐いた、その時。
「なんだなんだゲイナー、辛気くさい顔しやがって」
声がした途端ぽふ、と顔面に何か降ってきて、
うわあと椅子から立ち上がった瞬間、くらりと目眩に襲われその場にしゃがみ込む。
その上、嫌がらせなんじゃないかと本気で思う程、全身を蝕む筋肉痛。
ぱた、と少し経ってから聴こえた乾いた音に、先ほどの衝撃で軽くずり落ちかけた眼鏡を押し上げて見ると、
机の上には何の変哲も無いパンがころりと乗っていた。
「そ、そんなに驚くなよ。びっくりさせるつもりは無かったんだって!」
腕を伸ばしてパンを手に取り、ゆるゆると声のした方を向くと、
ゲイナーに合わせてくれたのか、自分もしゃがみ込んで両手で謝罪の形を作っているベローの困った顔とぶつかった。
「お前、昼も食べてなかったし、それに今からデッキへ行くんだろ?なんか腹に入れとかないと持たないぞ?」
「ベロー…」
確かにその通りだった。
これからキングゲイナーの様子を見に行くつもりだったが、こんな状態では皆の邪魔になるだけだろう。
自分のメンテも出来ないのに、オーバーマンのメンテなんてね。とコナのからかうような声と意地の悪い笑みが目に浮かぶ。
「ありがとう…これ、貰っとくよ」
「おう、配給のやつだけど、食わないよりはマシだからな」
少し年の離れた同級生は、こうして何かと世話を焼いてくれる。
けれどそれはただ善意を押しつけるようなものではなく、きちんと互いの距離感を踏まえた上での手助けだった。
そんな好意に感謝しながら、ゲイナーはパンをハンカチで不器用に包み込み、そっとカバンの中にしまった。
食堂に寄って、牛乳と一緒にベローに貰ったパンを半ば無理矢理胃の中に収め、
一旦部屋に戻り着替えを済ませた後、デッキに赴くと、サラは一足先にパンサーで周辺の見回りに行ってしまったらしく、
他のガウリ隊の隊員達も同様なのか、珍しくそこは閑散としていた。
「あーっ遅いよゲイナー!」
周囲をきょろきょろと見回していると、声を響き渡らせながらコナが手にした工具を振り回しこちらへ駆けてくる。
「ごめん、ちょっと寄り道してて」
「もうサラ達行っちゃったよ。キングゲイナーのメンテも済ませちゃったし」
どうすんの?あんたも見回り行くの?とジロリと上目遣いで訊かれ、う…と言葉に詰まった。
「…出来れば、正式な出動要請が出てないんなら、ここに居たいんだけど…」
大分眠気は醒めたとはいえ、意味も無くふらふらと外に出たら、予想もつかない失敗を犯しそうだ。
勿論警備も大切な任務だけれど、だからこそミスは絶対避けたい。だから。
「駄目かな、コナ」
「ん〜……仕方ないね。じゃあこっちでパンサーの燃料、補給しといてくれない?」
ついてきて、とキングゲイナーが配置されている方とは逆の、
格納庫の奥へ足を踏み入れると、コナは数機並んだパンサーの脇に置いてある古ぼけたタンクを指さして、説明を始めた。
「このタンクの中に、そこにあるオイルを線の引いてあるところまで入れるの。
蓋をして置いといてくれれば後はあたしらが取り付けるから。簡単でしょ?じゃあね、任せたからね」
次の仕事があるのか、手早くそれだけ告げてさっさと戻っていくリュックを背負った小さな背中を見送りながら、
ふう、と息を吐き出したゲイナーは、腕をまくり上げると早速与えられた仕事に取りかかった。
自分でも出来る、簡単な仕事だ。これならミスを犯す心配も無いだろう。
そう、思っていた筈なのに。
「ゲ〜イ〜ナ〜!」
「…………ごめん!本当にごめん…!」
頭を下げる度に、自分の身体にべったりとついたオイルの匂いが鼻をつく。
不幸な事故がゲイナーを襲ったのは、彼が3機目のパンサーのタンクにオイルを注いでいた時だった。
既に燃料を充填し、蓋をして脇に置いてあったタンクに不注意で足を引っかけ、
ものの見事に転倒し、腕に抱えていたオイル缶を盛大に床へぶち撒けたのだ。
「やっちゃったものは仕方ないけどさあ…高いんだからねー!コレ!」
「ほんとにごめんなさい…」
上半身はかろうじて無事だったが、ズボンはオイルまみれになってしまっていた。
それでもひたすら謝り倒すゲイナーに、渋い表情のコナはまだ何か云いたそうだったが、
はあ…と怒りを抑えるようにゆっくりとため息を吐いた後、
ビシ、とデッキ脇に備えられている整備員用のシャワー室を指さし、そのままジロリと少年を睨めつけた。
「…分かった、分かったからシャワーあびて帰んなよ。今日はもういいから」
しかし、地の底まで深く深く落ち込み黙ったまま、その場から動こうとしないゲイナーの腕を掴むと、
ああもう、とコナはシャワー室に向けて早足で歩き出す。
「顔色も悪いし、調子悪いんだろ?だったら無理せず休む。こんな状態でうろうろされる方が迷惑!分かった?」
「……うん」
着替えはその辺に積んである服適当に着ていいから、と云い残し、
勢い良く厚地の防水カーテンを引くと、コナはじゃあねと戻っていった。
あれだけ怒っていたのに、すぐにきちんと気持ちを切り替え接してくれるのは、彼女が大人だからだろうか。
どろどろになっている服で、これ以上二次災害を起こさないようおそるおそる脱ぎ落としながら、
ゲイナーは自分のふがいなさを痛感し、たまらなくみじめになった。
最低だ。
両目をきつく閉じ、降ってくる熱いシャワーの温水に、情けなさと共にどっぷりと頭からひたる。
そしてもうこれ以上自分の身に最低な事が起きないよう、心の中で真剣に、かなり切実に願った。
サイズの全く合っていないちぐはぐな借り物の服を着て、
部屋に戻る為バッハクロンと居住ユニットを結ぶ人気のない通路を歩いている途中、
姿は見えないが、遠く正面から響いてくる足音を耳で受け止めたゲイナーの眉間が曇った。
嫌な予感がする。本能で分かる。
しかし身体が逃げの姿勢をとるよりも、通路の角からその顔が覗く方が早かった。
男はその蒼碧の瞳でゲイナーの姿を捉えると、不躾にまじまじと見つめた後、
「なんだお前。その格好」
不思議そうに片眉を軽く上げながら、口を開いた。
「……あんたの所為ですよ」
「はァ?」
ゲイナーは俯いたままぎゅう、ときつく拳を握りしめる。
逢いたくなかったのに、顔なんて絶対、絶対見たくなんてなかったのに。
両目が正面の男を映し、その男を脳がゲインだと認識した瞬間、今まで堪えてきたものが堰を切って溢れて出してきた。
疲れきって身体も痛くて泣きたくなる程の怒り。それなのに、全てを共有し、知っている彼に対する、複雑だけれど緩やかな安堵。
「全部、全部あんたの所為だ…僕が今日どれだけ…っ」
そんな様々な感情が入り交じって震える声を、必死で抑えながら。
「どれだけ最低な気分を味わったと思ってるんです……か…っ!?」
声を荒げた瞬間、唐突に片腕を掴まれぐいっと男の方に引っ張られた。
投げつけようとして中途半端に遮られ、消化不良を起こしてしまった言葉の続きをゲイナーが煮えた頭で考えていると、
すぐ脇で壁伝いにある扉の操作をしていたゲインが、ロック解除の音と共に口を開けた真っ暗なそこに、無理矢理彼を押し込んだ。
「な…!ちょっ……ここ…は…?」
「仮眠室。文句はここで聞いてやる」
云いながら、しかしゲインは頭をがしがしと掻くと、さっさと下段の簡易ベッドを倒しにかかった。
「ちょっと、何やってるんですか」
「寝てないんだ。知ってるクセに云わすなよ」
「話聞くって云ったでしょ!」
「はいはい」
どうぞ?と簡易ベッドの上に腰掛けたゲインが、
隅に置かれていた使い古された毛布をばさっと広げながら、ゲイナーの言葉を穏やかな声で促す。
なんだか、いいようにあしらわれてる気がする。
男のぞんざいな対応の仕方に思わず唇を噛みしめたが、気を取り直して息を吸い込み、口を開いた。
「だから、あんたの所為で僕の一日が朝から滅茶苦茶だったんです」
「ほう」
「起きたらシーツはひどい有様だし、身体は痛いし、保健室はいっぱいだし」
「そうか」
広げた毛布の埃を軽く払い、膝の上に掛けた後、ゲインが自分の正面に立って喋っているゲイナーの身体に腕をそろりと伸ばす。
今日あった出来事を吐き出す事に熱中しているのか、当然少年はそんな男の不穏な動きに気がついている筈もない。
「それなのにあんたは平気な顔でガチコに乗ってるし」
「そりゃ俺の仕事だしな」
答えた後、ゲインは自分の姿を見られていた事に内心少し驚いた。
しかしゲイナーは無視して一人話を続けていく。余程腹にすえかねているらしい。
「眠くて頭はふらふらするし、オイルもかぶ…」
暗に彼のその言葉を待っていたのか、絶妙なタイミングで正面の細い手首を捉えると、
「奇遇だな。俺もだ」
そのままゲインは、自分が腰を掛けていた簡易ベッドにゲイナーの身体を引きずり込んだ。
「だから寝ないかゲイナー君」
「わ、ちょ…い……っ!」
ゴン、と間抜けな音が響き、見下ろせば自分の下に組み敷いたゲイナーが、後頭部を押さえ声もなく唸っている。
どうやらベッド端のむき出しの金属部分に頭をぶつけたらしい。
「大丈夫か?」
「…な訳ないでしょ!もうほんっと最低だ!」
撫でてやろうと後頭部に手をやると、やめて下さいと手厳しくはねつけられた。
これは本気で機嫌を損ねてしまったか、と思ったがゲインは懲りずに彼の頭に掌を乗せる。
「…あぁ、だからお前オイルの匂いがするんだな」
くん、と肩口に鼻を押しつけそう呟きながら。
男のそんな仕草に、くすぐったそうに首を竦めるが、ゲイナーの怒りは収まらない。
なんとかしてその太い腕の中から逃れようとするが、動くたびに襲う鈍い身体の痛みと、
いい加減無視も出来なくなってきている睡魔に耐えかね、ずる、と知らずに指先から力が抜けてしまう。
「ちょっと…!寝るんなら一人で寝て下さいよ」
「お前もほとんど寝てないだろ。面倒くさいからここで寝ていけよ」
「明らかに定員オーバーじゃないですか。ここ一人用でしょ。あと頭、撫でないで」
云っても止める気が無いのか、ゲインの体温が肌に触れる。途端に眠くて仕方がなくなる。
じんじんと痛んでいた後頭部は、ゆっくりとその骨張った手で撫でられる度に次第に薄れていった。
しかしそれでは余りにも不本意なので、痛みよりもゲインの掌よりも自分の眠気が勝ったのだと思う事にした。
「……本当に…最低だ」
歪んで遠ざかっていく意識の中、最後の抵抗でぽつりとそう呟く。
一番最低なのは、一日中こんな気分にさせた張本人に、見事丸め込まれてしまった自分だけど。
■end■
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最低最低と云いつつなんだかんだで仲いい2人。