21.



ひどく寂しそうに笑う顔も、その時きまって身体に巻きつく二本の腕も、
纏わる体温も、微かに漂う甘い香水の匂いも、けして嫌いじゃ無かった、けれど。



自分の心臓の音に驚いて、目が覚めた。
息が苦しい。耳許近くでジクジクと鳴り続けるいつもより速い鼓動を感じながら、
背中を丸め胸に手をやり、意識してゆっくりと呼吸を整える。汗がべったりと全身を包むその不快感に、自然と眉が寄った。
たまに見る昔の夢は、自分を奈落へ突き落とす。
目が覚めてからもしばらくの間暗過ぎてよく見えなかった周囲は、鼓動が落ち着くにつれ徐々に拓けていった。
そろりと腕を伸ばすと、軽く動かした指先に突如予期しない何かが触れ、瞬間ビクリと身体が過剰に緊張する。
思わずそこに視線を走らせてすぐ、はあ、と安堵なのか諦念なのか判別のつかない溜め息が口から漏れてしまった。
上昇した体温に納得がいく。汗をかく筈だ。すぐ傍にでかい男が眠っているのだ。
いつ戻ってきたのだろう。洗ったまんまで放ったらかしの髪がシーツに染みを作っているから、
結構時間が経っているのかもしれない。男は顔をこちら側に向ける格好で、固く目を閉じていた。
請負人がこんな無防備で良いのだろうかと逆にこちらが不安になってしまう程、すっかりと眠りに落ちてしまっている。
単にそれだけ疲れているだけなのかもしれない。
けれど隣に「居る」と認識をしてしまった途端、妙に落ち着かなくなってしまった。

ここはこの人の部屋で、この人のベッドで。
そこで眠っている自分こそが明らかにおかしいと頭では分かっている。
矛盾しているのは自分の方なのだ。それなのに、ここを出ていく事が出来なかった。

何故だろう。

何度も何度も自問しては、答えを見つけられずに時を過ごし、結局自分をはぐらかす。
使ってもいいという言葉にいつまでも甘えたままでいい訳は無い。分かっているのに、それなのに。
釈然としないまま、またここに帰ってきてしまうのだ。
かといって自分の部屋に戻らない訳では無く、日常の半分はそちらで過ごしたりもする。
ここには大抵寝に来るだけだ。そんな中途半端に惰性した日々を、ずっと繰り返しながら。

起き方が悪かった所為もあるのだろうか。
目が冴えてしまい、飲み物を取りに行こうか迷って、丸めていた背中を伸ばし身体を捻る。
そのまま音を立てないよう、腕を伸ばして脇に置いてあった眼鏡を引き寄せ、無造作にそれを掛けた。
暗闇の中で、それでもぐっと鮮明になった景色を、彼の顔を眺めながら、静かに枕に肘をついて上体を起こす。
ざらつくような寝覚めの悪さは幾分か収まり、気づけば汗も引いていた。

何故だろう。
こんなに近いのに、どうして嫌じゃないんだろう。



人に触れられる事に嫌悪感を覚えるようになったのは随分と前からで。
けれど、それがより一層顕著になったのは、両親が死んでから後だった。
あの頃は人に対する重度の不信感も相俟って、外に出られない程、きつかった。
可哀相に、と肩に触れる他人の掌や、気を落とさないで、と抱きしめてくる親戚達の腕は、
ただひたすら自分にとって恐怖と不快感以外のなにものでもなかった事を、今でも鮮烈に覚えている。

こうなった原因は、なんとなく分かっていた。

(帰ってこないの)

頭の奥底で突然響く、幼い声。
急に甦ってきた、悪い夢の続きに息を呑む。
それなのに喉の奥はカラカラに乾いていて、上手く唾が飲み込めない。
焦る自分を無視するように、緩やかに襲ってくる鈍い頭痛と、暗い脳裏に伸びてくる白い両腕。

(今日も父さんは帰ってこないの、母さん)

ほっそりとしたその二本の腕に、意識ごと絡め取られ過去へと引きずられる。
駄目だと思うより早く、その思い出は自分の胸の奥を深く抉り込んだ。目の前が暗い。

(お父さんは研究が忙しいの。だからわがまま云わないでね、ゲイナー)

そう云って、寂しそうに茶色の瞳に笑顔を浮かべるあの人を見るのは、胸が痛くて本当に嫌だった。
そして必ずその後、小さな自分を腕の中に引きずり込む行為も。
嗚咽を堪えるささやかな吐息。抱きしめたままあの人は何度も頭や背中を撫でてくれた。
大事に大事に、愛しむように。
けれどそれは。

(お父さんが居なくても、私はきちんとやっているでしょう?)

けれど本当は、知っていた。
その優しい抱擁に含まれるものがいつしか愛情だけではなくて、
父や自分に向ける、不満や憎しみが複雑に混じり合っていった事を。

(私がいれば寂しくないでしょう?私はいいお母さんでしょう?)

優しく云い聞かせるように何度もそう繰り返しながら、泣いているのも本当は知っていた。
あの人の作り出す息苦しいこの空間から出ていきたくて、仕方がなかった。
けれど、その柔らかな腕を解く事が出来なかったのは、
それでもやっぱり母親であるあの人が好きで、嫌われるのが怖かったからだ。
あの人から与えられる抱擁は不安と緊張の連続で、気がつけば僅かな接触すら過度に警戒するようになった。
けれどそんな自分を気取られないよう必死で隠していた所為で、その抑圧の反動は、他人に全て返っていった。
クラスメイト、教師、あらゆる人々。他人であればある程自分のそれはひどかった。
肩に手があたるだけでも、鳥肌が立っていたのに。



思い出を振り切るように眼鏡を外し、元の場所にそっと戻す。
厭な事ばかり思い出す上に、今夜も自分の納得する答えは出そうにない。
飲み物を取りに行く気力も殺がれてしまった為、少しだけ躊躇った後、結局彼の隣にもう一度横になる。
出来る限り、ぎりぎり端まで離れたつもりだったのに、耳許すぐ傍に寝息が掛かって驚いて顔を向けると、ばっちりと目が合った。
彼は瞼が半分くらいしか開いていない瞳を緩ませて、ふ、と微かに笑うと、
太い腕を伸ばしてきて、そのままぶ厚い胸の中にずるずると自分を抱き込んでいく。
余りに突然過ぎて、抵抗する暇なんてまるで無い。

 「…っ」

なんでこの人上半身裸なんだ。
いくら横着者だからといっても服くらいは着るべきじゃないのか。
ダイレクトな体温の密着から逃れようと、必死で腕の間から顔を出す。
文句を云おうと睨みつけた視線は、既に寝息をたてている男の顔にぶつかって、結局何も云えずに終わった。
聴き取れない不明瞭な言葉(多分女性の名前だ)を口の中で呟きながら、無意識なのだろう、頭をゆっくり撫でてくる。
彼にとってこれは、この動作は、ベッドの上での単なる条件反射なのだろう。
おそらく自分は、そんな彼と一夜を共にする何処かの女性と勘違いをされている。
余りの馬鹿馬鹿しさに、必要以上に強張っていた身体から一気に力が抜け落ちた。
筋肉のついた腕、皮膚の匂い、熱い体温、他人の鼓動。
それらの中に身体を預けながら、男に抱きしめられて眠っている自分の現状にぞっとしないでも無い。
けれど、愛してる、と眠っていても口説く事を止めない女タラシな男の、クセのある鼻梁を見つめ、思う。
この人の抱擁には裏が無い。
その時考えている事、想い全てを行動として表すそれは、余りにも直接的で分かり易く、
たまにすごく自分勝手で乱暴だと腹が立つ事もあるけれど、その腕はいつも温かくて、抱き竦められると息が詰まった。
間近にある喉仏を眺めながら、ぼんやりとそこまで考えた後、自分の口角が変な風に下がるのを感じる。

これはやはり、流されて、いるのだろうか。
恋愛感情(この言葉すら寒々しい)なんて、お互い欠片も無い筈なのに。

 「………なんか馬鹿みたいだ」

好きでもない相手に抱きしめられて眠るなんて。
その相手があのゲイン・ビジョウだなんて。
更に忌々しい事に、その熱が心地良いだなんて。

 「………どうしたらいいんだよ」

得体の知れない感情に蝕まれつつ、誰に云うでもなくボソリと独りごちる。
夢の余韻はいつしか薄れ、気がつけば息苦しさや頭痛も嘘のように消えていた。
爪先に残っていた最後の緊張が綻ぶ頃、とろとろと眠気が襲ってきて、彼の腕の中でひっそりとあくびを噛み殺す。
理性はこれだけぐるぐると悩んでいるというのに、本能は驚く程単純だ。
そんな知らなくていい事まで知ってしまった。何度も、この腕と夜の中で。
他人の寝息と、肌に伝わる安定した鼓動を感じながら、切れ切れになる意識の中ゆっくりと目を閉じる。



その柔らかな笑みも、温かな指先も、嫌いじゃなかった。大好きだった。
いつまでも帰ってこない父を待ちながら、それでも笑って抱きしめてくれた。
その度に、想いの強さに潰されそうになっては、支えるように懸命に、抱き返した。

(昔の僕はただ抱きしめられるだけで、何も云えなかったけど)

小さな自分を通して父を見ていた母。
どうして。
と、抱きしめながら何度も問うていたのは、いつも父に向けてだった。

(あの時僕が本当に欲しかったのは、)

太く浮いた鎖骨に額をぶつけて、懐かしさや寂しさの混じった複雑な感情に、ふと緩みそうになる涙腺を眠気でごまかした。
眠っているのに、律儀に何度も頭を撫でてくる大きな掌の体温を髪先で感じながら、新たに用意された微睡みにうとうとと落ちる。
無理矢理引き込まれた腕の中は硬くて暑くて窮屈で、とても快適とは云い難く、更には明け方二度ほど重たい足に乗っかかられた。
相手の寝相の悪さに辟易しながら蹴り返し、すぐ傍にある温もりに潜り込む。起きたら文句を云ってやろう。寝惚けた頭でそんな事を思った。

夢はもう、見なかった。



■end■

ゲイナーだって甘えたい時もある。