04.



瞼の裏を覆っていく柔らかな薄明かりに、意識がゆっくりと呼び戻されて。
水の底から表面へふわりと浮上するような、そんな奇妙な感覚に捕らわれたのは。

 「あ、起きた」

目を開けて一番最初に見たものが、朝の光に揺れる長い水色の髪の毛だったからかもしれない。

 「………」
 「おはよう。請負人さん」
 「………」

瞬きを何度か繰り返し、怠さの抜けない腕でぐしゃぐしゃになった前髪を掻き混ぜる。
その一連の動作を面白そうにじっと覗き込んでいる、水色の髪の美女。

 「昨日はどうもありがとう。助かっちゃった」

未だ睡魔と酒で淀んだ脳を何とか正常に戻しながら、髪にあった手をそろそろと下ろした。
パサリ。と微かに湿ったシーツの感触。
すぐ傍で、何の恥じらいも無くごく普通に下着姿で腰掛けている、この、女性は。

 「………君は」
 「あれ、覚えてない?」

怒るでも落胆するでも無く、ただうそお、と驚いたように口を開けている彼女と、
その伝説の歌姫の名前が一致するまで、正直微かなタイムラグがあった。

 「…ミイヤ・ラウジン」
 「そうそう。私、迷ってるところをあなたに助けられたんですよ」

ほっそりと長い脚を床に放り出して、ミイヤがほらほら、あそこでお酒飲んだでしょう?と古ぼけた窓の向こうを指さす。
彼女の伸ばした腕の向こうに見える、ひしめき合う薄汚れた建物達。
今は日が昇り地味に佇んでいるが、ここは余り治安の良い場所では無い。
夜になると酒場や娼館が立ち並ぶ、所謂ウルグスクの闇と娯楽の部分が凝縮されたユニットの一角だ。
よく見れば、この狭い部屋の机にも空になった沢山の酒瓶が溢れるように置かれ、床に転がっているのもあった。

となると、これだけの量を、二人で飲んだのか。

そんな事を考えている間にも、明け透けな朝の陽差しに触発されて、徐々に記憶の方は蘇ってくる。
そうだ。彼女の云う通り自分は昨日の晩、場末の酒屋で客がひしめく中、一人サンドイッチを食べている彼女と出逢った。
明らかにこんな場所に居るには存在自体が浮いていた為、不思議に思って声を掛けたら、マネージャーとはぐれてしまったと云う。
ヤーパンのユニットに来てまだ幾日も経っておらず、金の管理もそのマネージャーが全て担っているので、自分のささやかな所持金もこれで底を尽きそうだ、と。
その割には悲観に暮れる様子も一切無く、両手で持ったサンドイッチを美味しそうにぱくついている彼女に妙なたくましさと微笑ましさを感じ、
気づけば隣に座っていた。浮き世離れしたその魅力に惹かれたのかもしれない。そして酒を酌み交わして、食べて、喋って。
そして。

 「で、ここに一泊」

そう云って、化粧っ気の無い健康的な顔でにっこりと笑うミイヤ。
酒の臭いがこもった狭苦しい、宿屋…というにはベッドと簡素な机しか無いという、
いかにも露骨過ぎる部屋に、ふわりと花が咲くような笑顔と甘い香りが染み渡っていく。

 「…あぁ、そうか」

そうだった。昨日は君と。
独り言のように呟くと、ベッドの端にちょこんと腰を下ろしていた彼女がふふ、と小さく笑いながら、
ごろりと自分の隣へ、下着姿のまま同じように寝転がる。シャワーは起きてから浴びたのだろうが、
かといってそれから服を着る事もせず、この格好で自分が起きるまで狭い部屋をぶらぶらとうろついていたのかと思うと、何故だか妙に笑えた。
ダブルと云うには怪しいサイズの、使い古されたスプリングが二人分の体重で押し潰され、シーツの下で僅かにくぐもった悲鳴を漏らす。

 「広いですよねぇ、ヤーパンの天井。あんまり広いからびっくりしちゃった」

さらりと絡む水色の髪。それを指先で撫でながら、歌姫の素直な感想を黙って聴く。
透き通るような白、というのはこういう肌の事を云うのだろうか。きめが細かく、滑らかな。
うつ伏せの格好ですらりと細く長い両腕を組み、そこに線の細い顎を乗せながら彼女は上機嫌で言葉を続けた。

 「街ごとエクソダスをやっちゃうなんて、請負人さんはすごい」
 「冬至の祭りでピープルを盛り上げてくれた、君のおかげだ」

尤も、あれは本人では無くホログラム映像なのだが。
しかしあの祭りの賑わいで、こちら側が随分動き易くなったのは事実だった。
自分の事を云われたのが予想外だったのか、少しだけきょとんとしたミイヤは、その後あははと軽やかに笑う。脚をばたつかせながら。

 「あれはほら、私は好きでやってる事だから」

申し訳程度に備え付けられた窓から差し込む朝日の中、長い髪がたゆたうように華奢な身体に纏っては流れ、その光景に目を細める。
脚を揺らす度爪先を彩る淡いコーラルピンクがちらちらと視界を掠め、ひかえめなそれが逆に扇状的だと思った。

 「請負人さんも好きでやってます?ちゃんと、エクソダス」

向けられた柔らかな声に白い脚から視線を戻すと、
隣に寝転んだままこちらを見上げている薄い碧の瞳と目が合う。それは声に対してひどく真面目な色を秘めていた。

好きでやっている?
エクソダスを。

 「…どうかな」

苦笑と共に吐き出した回答。確かに理想や情熱が無いと出来ない事だ。
けれど理想や情熱だけでは駄目だと知ってしまった今と、それだけを追いかけていたあの頃とでは、エクソダスに対する想いも違っていた。
意識しようとしていないだけで、自分の中で「それ」は確実に変化しているのだと思う。そもそも「好き」「嫌い」で考えた事すら無い事に気づいた。
きちんとした答えを避け、曖昧にぼかしたのだが、その率直な質問をぶつけられて一瞬返事に詰まってしまった自分を、ミイヤは見逃さなかった。
組んでいた腕をゆっくりと解き、おそらく寝癖であちこちに跳ねているであろう自分の髪の毛にそうっと触れてくる。
まるで小さな生き物を、気をつけて優しく撫でるような、そんな。

 「ちゃんと好きでいて下さいね。じゃないと潰れちゃうから」
 「そんなにヤワじゃないつもりだけどな」

彼女は静かに笑っただけで、何も云わなかった。そうして幾度か硬い髪を撫でていた掌は、その後するりと頬を伝う。

 「そうだ!泊めてくれたお礼に何か歌ってあげる」

突然ガバリと跳ね起きたかと思うと、座ったまま姿勢を正し下ろしていた長い髪を器用にひとまとめにしていく。
泊めてくれたお礼、と云ったって、お代は昨晩ここで十分頂いたつもりだが、ミイヤは頑として譲らない。
なんでもいいよ、あ、踊りもサービスしちゃう!そう云った後嬉々としてベッドから降り掛けた彼女の横で、
つられるように自分も上体を起こすと、その細い肩を掴み、ぐっとこちらへ引き寄せた。
柔らかな身体は何の抵抗も無く、そのまま腕の中に収まってしまう。

 「もう少し寝たい」
 「職務怠慢はだめですよ〜」

対御婦人仕様の甘い低音で囁き、もう一度ベッドの中へ誘ってみるが、即座に拒否されてしまった。
もうお昼が近いんだから、ルブルを探さなきゃいけないんだから〜。などと困ったように云いながら、
しかし本気で嫌がっている様子は無い。腕の中いっぱいに広がる甘い匂いを吸い込みながら、水色の髪に唇を押しつける。

 「では子守歌をひとつ、所望していいかな」

その言葉に、腕の中のミイヤが意外そうにこちらを振り仰ぐ。

 「…う〜ん、いいけど寝ないで下さいね?」
 「寝ないよ。でも聴きたい」

しばらく俯いて何か考えていたようだが、ようやく心を決めたのか、
顔を上げたミイヤがまず始めにした事は、腕の中の身体を少しだけ反転させ、自分の背中に軽く腕を廻す事だった。

 「広い背中。綺麗な色の肌。…請負人さんは砂漠の生まれの人?」
 「五賢人ってのは、そんな事まで分かるのかい?」
 「だって、太陽と砂の匂いがするもの」

腕を廻したまま、肩の辺りに鼻の頭を押しつけて嬉しそうに笑うと、ミイヤはすっと静かに息を吸った。

 「それではとっておきのを」

吐息と共にそう呟いた後、一番最初の旋律が口からこぼれる。

静かな静かな歌だった。
ミイヤは目を閉じ、慈しむように、愛しむように紡ぎ出す言葉を柔らかな音に変えていく。
甘く、とろりとした歌声が耳許を優しく撫でていく度に、何故かそっと胸の底から苦いものがこみ上げた。

忘れようと思ったもの。
終わったと思ったもの。
捨ててきたもの。
それでも自分を追い立てて止まなかったもの。

好きでやっている?

自分にとって、あの頃置かれていた境遇全てを打破する、唯一の手段でしかなかったもの。

ただがむしゃらに、自分の事しか考えず、
若さ故の過ちでは済まされない事を沢山やって、その大きすぎる代償に血反吐を吐いて苦しんで。
死んだ方が楽だと思ったが、それだけはどうしても出来なくて。そしてそんな自分の浅ましさにまた絶望するしかなかった、地獄のようなあの日々。

そんなものを味わっても尚、自ら動き出す事を止めなかった。止める気も無かったのは。

目を瞑る。
触れ合った肌越しに響く、ミイヤの不思議な歌声。
水の中に沈んでいくような感覚が自分を満たし、眠気となって思考をゆっくりと停止させる。
閉じた瞼に浮かぶのは、白い吹雪と、新しい仲間達の、ピープル達の、希望と不安に満ちた顔。

旅は、続いている。



■end■

ゲインだって甘えたい時もある。