02.



何が起こっているのか、分からなかった。

視線だけを上方に移動させ、そっと周囲を窺えば、
広くは無いそのどんよりと暗く冷たいスペースで、沢山の大人達が先程と変わらず、落胆や疲労、
そして絶望の表情を浮かべ壁伝いに座り込んでいる姿が映り、夢では無い事を遅まきにじわりと痛感させられた。
何度目かの溜め息を吐いて、立てた両膝に顔をゆっくりと沈める。
どうして、こんな事になったのか。
どうして、自分はこんな所に居るのか。
全然、分からなかった。



久しぶりにオンラインへとつながった、シンシア・レーンとの対戦の後、
彼女を破った事で連続200回防衛を果たしたらしく、気がつけばキングの称号を与えられていた記念すべき?朝。
案外あっけないものだな、と徹夜明けの妙に冴えた頭で思い、アラームを止めた目覚まし時計を乱雑に積み上げられた布団に押し込む。
(キング、か。)
そのままひとつ大きなあくびをして、のろりと立ち上がった。
長時間同じ姿勢で座りっぱなしだった所為で脚の関節が軋むように鈍く痛んだけれど、
無視して布団の上に脱ぎ散らかしてあった制服の裾を掴んで、自分の方へと引き寄せる。
あの日からずっと袖を通していない制服を、今日は着られるような気がした。

しかしそれは数時間もしない内に、丸ごと後悔の念へと変わった訳だが。



エクソダスの容疑。

膝の上に乗せていた腕、その両拳に知らず力が染み込んでいく。
よりによって、エクソダスだなんて。
こんな所へ拘留されるという事より、そんな冗談にしても質の悪過ぎる疑いを掛けられている事の方がたまらなかった。
何度も弁明をしたけれど、シベリア鉄道の警備隊員は誰一人としてまともに自分の話なんて聞いてくれない。
この部屋を取り囲む雰囲気の余りの息苦しさに、沈んだ気分のまま詰襟のホックを外し、
苛つく心を抑えるようにそれを指先でなぞっていると、見知らぬ大人がパン一切れを手に取り、こちらへ突き出してくる。
食欲は余り無かったけれど、どれくらい続くか分からない留置所(見てくれはほとんど牢獄といって過言では無いと思う)
での生活を考えると食べないよりはましだと思い、それを口に含んだ。よく考えれば、朝もろくに食べていない。
何処からか聴こえてくる諦めの混じった女性の泣き声。固いパンは、酷くそっけない味がした。

数分程経った頃、乱暴な数人の足音が徐々に近づいてきたかと思えば、扉が耳障りな音を立てて開かれる。
疑いが晴れたのかもしれない。もしかしたら、出られるかもしれない。
微かな期待を胸に顔を上げたその瞬間、視界に、突然ボロボロの男が降ってきた。
男はシベ鉄の警備隊員によって半ば強引に中へと押し込まれ、牢に入った途端全ての力を失ったのか、
身体を支えきれないようにしてグラリと前へ倒れ込んだのだ。その衝撃が弱い風となって、ふわりと頬を撫でていく。
鼓動が少しだけ、速くなる。
汚れた白いコート、乱れた髪の毛、見た事の無い不思議な構造のブーツ。
なんだかここに居るには余りにも場違いな、というよりも違和感のある男だと思った。
無意識に身を乗り出してまで彼の方を見ていた自分に気づき、慌てて首を引っ込める。
何なんだろう。だけどこの男は何か「違う」気がする。
顔を牢の外に向けると既に隊員達は行ってしまった後で、軽い落胆を覚えながら視線をのろのろと固い床に戻す。
彼の物なのだろうか、それまで空白だった場所に水の入ったコップと、その上には無造作に乗せられた一切れのパンが、そっと置かれていた。



それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
ギ、と再び扉が開く音がして、視線だけを横にずらすと、
最初と同じようにバケツと2本のパンが警備隊員によって運ばれてくるところだった。
 「同じように分けるんだぞ」
やる気の無い声でそう告げた後、隊員は伸ばした腕をいかにも面倒くさそうに監獄の外へと戻した。
次の食事が運ばれる程度の時間が経った。という事は、外はもう夜だ。
この密閉され、暗澹とした場所に居ると時間の感覚がじわじわと失われていく。
疑いが晴れるのを待っている以外何もする事が無いし、何を考えても思考は堂々巡りだ。一体どうすれば。

 「俺も食うからな」

焦燥感を必要以上に持て余した、ちょうどその時だった。
唐突に、掠れた低音が耳に入ってくる。驚いて声のした方を見れば声の主はあの男だった。
男は俯せに倒れたまま、まだ生きてる、とでも云うように放り出した右手の指先をひく、と小さく動かす。
息を呑む。気がつけば衝動的に立ち上がって叫んでいた。

 「僕はいつ出られるんですか!?」

けれど返ってきたのは、
 「知らねぇなぁ」
本当に何も知らないのだろう、気の抜けた答えだけで。
怒りと失望で顔が歪むのを感じながら、それ以上に何も出来ない自分の無力さに苛立った。
ひやりとした鉄格子に背中を押しつけたまま、ずるずると固い床へ座り込む。
力が、欲しいと思った。



目が覚めてしまったのは、上から微かに響いてくる外の賑やかな喧噪の所為だろうか。
今日から冬至の祭りが始まる。夜になったという事は、もうミイヤの踊りも始まっているのかもしれない。
慌ただしく、それでいて華やかな雰囲気がこんな絶望に満ちた地下の監獄にまで伝わってくるなんて、なんだか酷くシュールな気がする。
打楽器のリズムと共に伝わってくる祭りの音楽を聴き、そんな事を考えながら、膝を抱えた腕の中で、こっそりと小さなあくびをかみ殺した。
中途半端にうたた寝をしてしまった所為か、頭の芯が少しだけ痛む。
眼鏡を押し上げ涙のたまった目を擦り視界を正常に戻すと、先程までの見慣れた光景が微妙に変わっている事に気づいた。
今まで自分の隣にあったのは投げ出された男の両脚だったのに、いつの間にか向きを変えて頭がこちらにきている。
牢の出入口に顔を向ける格好になっているのだ。
奇妙に感じつつも、先程云われていた事を思い出して、左手に持っていたパンを近くなった男の顔の辺りに差し出してみた。

 「僕、あなたのパン預かってます。…食べます?」
 「あぁ」

男は起きていたらしい。
ここは照明が絞られ薄暗いので表情まで分からないのだが、
しっかりとした口調で、俯せたまま少しだけ億劫そうに左手を持ち上げる。
手袋をした大きな掌にパンを渡しながら、そんなに怪我が酷いのだろうかと少し不安になった。
ここに投獄されているという事は、おそらく彼もエクソダスの容疑で捕まっているのだろう。
けれどこの中には「疑わしい」という理由だけで手当たり次第シベ鉄が引っ張ってきていて、
明らかにエクソダスとは何も関係の無い人々も数多く捕らえられている。
自分なんてオンラインゲームのチャンプになったというだけで連行されてきたのだ。
もし。
もしも、彼も自分と同じように無実の罪で捕まっているのだとしたら、
拘留だけでは飽きたらず、不当な暴力まで加えているシベ鉄は本当にとんでもない組織だと思う。
ぼさぼさに乱れた男の黒い髪を眺めるともなく眺めながら、小さく息を吐き出した。どうなるんだろう、これから。

けれどその不安は、直後、驚くべき出来事で打破される事になった。



ここに入れられて数度目かの、扉を開ける音。
倒れている男を立たせようと腕を伸ばした警備隊員の右手首を掴み、その反動を活かした彼は、
立ち上がりざまそのまま右手に隠し持っていたコップを隊員の顔面めがけて下から繰り出したのだ。
瞬間、牢の中に響き渡るド派手な破壊音と、どよめく人々の声。
コップに入っていた水が飛び散って男の顔に降りかかる。
浅黒い肌に、殴られた無数の傷跡。キラキラと反射する水滴が眩しくて思わず目を細める。

びっくりした。
びっくりするくらい、カッコ良かった。

男は何事も無かったように開け放たれた扉から出ていき、
軽く上体を屈めると、倒れ伏した隊員の懐から何かを探し出しているようだった。
鉄格子に手を這わせ、無意識に立ち上がる。目が離せない。こんな大人、見た事なかった。
牢の外、鉄格子越しに男が振り返り、ゆっくりと口を開く。

 「俺は出ていくが…来るかい?」
 「え?」

心臓が高鳴る。
 「いや…」
けれどすぐ隣に居た大人が返事を曖昧に濁してしまった。
それを聞いた男は腫れ上がった左目を少しだけ開けて反応すると、くるりと牢に背を向け覚束無い足取りで歩いていく。
その際、隊員の懐から難無く取り上げた鍵束を、捕らえられている人々に向けて放り投げる事も忘れずに。

 「シベリア鉄道に、警察権は無いんだぜ?冬至の祭りも始まり、ミイヤの踊りだって始まる頃なんだろ?」

ゆっくり、ゆっくりと光の差す出口の方へ進みながら、男が様子を窺いつつ懐へと手を入れる。
知らずに喉が鳴った。気がつけば強く、拳を握りしめていた。
扉は、開いているのだ。ここに居る必要なんて無い。
そう思っているのに、両足は冷たく固い床に張り付いたまま動こうとしない。
行きたい。
もう一度こちらを振り返った男が、嘲るように、哀れむように静かな笑みを口許に浮かべながら自分達を見る。

 「不平不満はあっても、自分からは何もしない。それがドームポリスのピープルの習性だもんな」

胸の奥で、何かがつき動かされる気がした。
彼の言葉がまるで呪縛を解く合図だったかのように、すうっと、足が床から剥がれる。
開いていた扉に手を掛け、錆ついて軋む音と共に、暗く重苦しい牢の中からゆっくりと歩み出る。
周囲から止せとかやめておいた方がいいとか押し殺した声がしたけど、もう何も聞こえなかった。
彼の声しか。
外に出た自分を、男は一瞬だけ意外そうな顔をして眺めた後、ほう、と顎を軽く上げ面白そうに笑った。

 「いいのかい?」

光のあたる所で見ると、彼の髪の色は黒では無く深い緑だという事に気がつく。
そんな事にすら目を、意識を奪われている自分が居る。

 「僕、ここにいる人間じゃありませんから」

詰襟のホックを急いで留めながら、ぶつけられる視線から逃げずにそう答えた。
相当酷く殴られたのだろう、顔の左部分が赤く腫れ上がっていて、けれどそれすら格好いいと思った。
自分に無いものを全て持っている、見ず知らずの男に強烈に惹かれている事に軽い驚きを感じながら、
それでもあのまま狭い監獄の中で無力な大人達と一緒に居る事には、耐えられなかったから。
その答えに満足したのか、男は懐から取り出した黒い拳銃を無造作に自分に手渡す。

 「俺はゲインだ」

ズシ、と冷徹な重みを両掌で受け止め、顔を上げた。
彼と行けば、手に入るだろうか。
踏み出す勇気を。

「僕、ゲイナーです!」



踏み出す、力を。



■end■

最初の出逢いでゲイナーの心を見事にかっ攫っていったゲイン。
先に(変な意味でなく)惚れたのはゲイナーの方じゃないかなあと。