(……………う)

目が覚めた。
ひどく重い瞼をのろのろと開ければ、薄暗い、輪郭の不明瞭な景色が映る。
そのまま視線をゆっくりと、隣に移す。
寝乱れたシーツと、そこから覗く深い緑。
数十秒かかって眠気で霞掛かっている脳から記憶を掘り起こし、整理をして。
ようやくゲイナーは、今の状況に思い至った。
(…………あぁ、だから…)

べたべたするんだ。

ぼんやりと自分の身体を触りながら、その不快感に対し純粋に眉を寄せる。
眠いけどべたべたは気持ち悪い。
そろりとシーツをめくり、上体をそっと起こす。早く身体を洗い流したい。
ぎし、と沈むスプリング。身体のあちこちに鈍い痛みを抱えつつ片足を床につけた、その時だった。
 「…う」
身体が、ぴしりと、硬直する。
緩い速度で内股を伝っていく、液体。生温いそれに、その感触に肌の表面がザアっと粟立ってゆく。
 「う、う、…う」
これはもしかしていや多分きっとあのあれなんだろうけど頭が拒否する拒否したい。

途端ぐるぐると渦巻き始める思考を無理矢理シャットアウトし、
(とりあえずシャワー…っ)
おっかなびっくりベッドから降り立つ事を決意した。

 「…っい、」
しかしその僅かな振動すら今の自分には厳しい。
腰やその周辺にまとわりつく、この独特の鈍く重たい感じ。
それでなくとも身体中の関節がぎしぎしと軋むように痛むのだ。

が、それ以上に、
 「きもちわるい…っ」
思わず口に出してしまう程、その感触はたまらない。

幸いにも相手はまだ眠っているようだから、今の内にさっさと流してこなければ。
未だかつて無い不快感でがちがちに強張った身体を引き摺って、それでも何とか浴室にまでたどり着き、大きく溜息。
震える指で蛇口を捻り、降ってきた暖かい水が身体を濡らし始めた頃、ようやく全身から余計な力が抜けて、再び溜息。
しばらく呆然と佇んで、俯いたまま温水に打たれるに任せていたが、
身体中の細胞が起き出してくると同時に頭の中がクリアになり、今この現実をしっかりと悟る羽目に陥ってしまった。

よくよく見ると、二の腕とか、脇腹とか、胸とか、…なんだか色々な場所に紅い痣が残っている。
しっとりと柔らかい照明の下で見るそれは妙にリアルで生々しくて、急激に顔が火照っていくのが自分でも分かった。
確かに、先刻あんな事やこんな事をされた。させてしまった。
後半は例の如く記憶がふっ飛んでしまってはいるが、こうまざまざと事後の形跡を目の当たりにすると、否定する訳にはいかなくなる。

それに。

視線を移動させる事すら躊躇われる、というか正直恐ろしい、その場所。

(ええと、その、これって、)
こくり。と息を呑む。
(…………だよな…やっぱり。)

漠然、とではあるが、とりあえずその行為は女性ではない自分の身体に必要な訳で。
そしてそれはいつも気がつけばあの男がしてくれていた訳で。
(…そりゃあ、いつも終わった後の記憶もあやしいし、起きたら朝だし…)
けれど今、その状況に立たされているのは紛う事なき自分な訳で。

つまり。
そこまで考えて、気が遠くなりかけた。
同時に力が抜け、しゃがみ込みそうになる身体。
いや、でも、自分がやらなければ、あの男か?あの男を起こして頼むのか?

死んでも嫌だ。

 「…間違いなく死ぬ」

そんな屈辱を味わうくらいなら。

男の意地で這い上がり、ゆるゆると壁に手をついて、少しだけ上体を前に倒す。
きっと今の自分の両目は物凄く素晴らしく据わっているに違いない。
固唾を呑んで、意を決して、もう片方の手を…手を……手……………
再び遠くなりかける意識。
を、必死で呼び戻し、息を吸って、吐く。
おそるおそる震える手を、指をそこに誘導し、物凄い緊張と恐怖に耐えながら、そっと、触れた。

ヌル、
 「〜〜〜〜〜っ!」
唐突に指先に絡む液体の感触に口から心臓が飛び出そうになる。
この表現は間違っちゃいない。ゲイナーはがたがた震えながら、本気で思う。

 「…う、……っ」

こんな。
こんな。
こんなの、正気の沙汰じゃない。あり得ない。
恐怖に青ざめつつ、触れた指に少しずつ力を込めて、ゆっくり、ゆっくり狭いそこを寛ろげ、
その奇怪な感触に思わず悲鳴紛いの声を上げそうになるのを、唇を噛み締め目を瞑り耐えた。
 「……う…っ、…ぇ」
恥ずかしさと腹立たしさと気持ち悪さと情けなさに泣きたくなる。
だけどこんな格好でこんな事をしながら涙を流すなんて本当に本当に馬鹿馬鹿しいから、泣かない。
多分もう涙目になっているだろうけど、絶対泣かない。
指の腹で、自分でも触れた事のなかったその部分を探り、傷つけないよう細心の注意を払いながら他人の体液を掻き出していく。
こんな、こんな事を、自分が寝ている間ゲインにされていたのか。いつも。いつもいつも。悶絶する余りそのまま頭を壁に打ちつけたくなる。

眩暈がしそうだ。

散々あの男に弄られた所為でひどく敏感になっているそこは、僅かな指の振動すらたまらない刺激となって伝う。
じわじわと甘いそれが全身に拡がる度、崩れそうになる頼りない両膝を、懸命に立て直す。
湯気の中たどたどしく繰り返すその動作は、少年に様々な事を考えさせるには十分な時間だった。

例えば、ゲインはどんな顔で、何を思いながらこんな事をしていたんだろう、とか。
しかし想像しかけてすぐに猛烈な羞恥に襲われ、断念した。
例えば、女だったらこんな面倒な事しなくていいのに、とか。
内股から膝裏、脹脛に伝っていく精液。お湯と混ざり合い小さな渦を描きながら排水口へと消えていく。
その様子を虚ろに眺めながら。

例えば、何故、自分なんだろう、とか。
そんな面倒な事までして、どうして。

 「………」

そこまで進めた考えは、結局潔く放棄する事にした。
 「…最悪だよ、もう………」
とりあえず、この死にたくなる程のいたたまれなさをもたらしている張本人はあの男なのだ。

それさえ分かっていればいい。
それ以外は、何ひとつ必要ない。

息を詰め、おそらく最後であろう不快感に、耐える。
多分、もう、大丈夫。
ようやくその行為から解放されたゲイナーは、安堵の溜息と共に、情けなくもずるずると浴室の床に座り込んでしまった。



ギイ…
遠くで軋む扉の音。瞼の裏に微かな光の筋が映った。ような気がする。
が、職業柄人の気配は敏感過ぎる程に察知してしまう為、半ばいつもの習性でゲインは無理矢理脳を覚醒させた。
 「ぅ…」
のそりとだるく重たい身体を起こし、光源の方に目を遣れば、
浴室から出てきたばかりなのか、バスタオルを羽織ったずぶ濡れのゲイナーが顔を上げたところで。
目が合った後、数秒の間を挟んで、その顔はぶわあっと一気に赤くなっていった。
これは…初めて見る反応かもしれない。男は何故だか少しだけ得した気分になる。

それにしても。
自分がここまで寝入ってしまうのは珍しい…存外疲れていたのだろうか。
ではなくて、正面に見える少年の表情がいつの間にか不穏だ。物凄く不穏だ。
 「…ゲイナー、今、何時だ…?」
とりあえず当たり障りの無い事を尋ねて、みた。
軽く爆発している寝癖に触れつつベッドの上から仰ぎ見ると、彼はすぐ傍にあった置き時計に黙って手をかけている。

 「……」
不自然な沈黙。
 「……?」
もう一度名を呼ぼうと口を開き掛けた、まさにその瞬間。

ゲイナーが置き時計を片手に大きく振りかぶった。

 「…っどあ!!」
顔の真横スレスレに凶器と化した時計が飛んでくる。
間一髪で避けたものの、後ろの壁にぶつかった時計は変な音を立ててシーツの上に転がり沈んだ。
その一部始終を横目で捉えながら、ゲインが横に移動しつつ叫ぶ。
 「お、お前、いくら俺でもこれは死ぬぞ、直撃したら死ぬ」
 「…こっちは死ぬ方がましな思いをさせられたんです。これぐらいじゃ足りない」
 「はあ?!」
 「絶対、足りない」
見れば震えるゲイナーの手には新たな凶器が握られている。花瓶。
やばい。なんか知らんが殺られる。確実に殺られる。
ベッドの上での修羅場は慣れてはいるが、流石に鈍器にまで手を出すご婦人は居なかった。
 「待て。話を聞…」
 「知りませんよそんなの。もう嫌だ…絶対嫌だ…あんたなんか大っ嫌いだ」
目が据わっている。これは間違いなく本気だ。
最早話を聞く猶予すら与えてくれないらしい。ゲインは間合いを取りながら息を呑む。
 「待っ…」
 「この、最低男!」

その瞬間。
怒号と共に、花瓶がこれ以上なく美しい弧を描いて、空を舞った。



結局。
寝起きの男は、自分に対して向けられている怒りの原因を紐解く事無く花瓶の餌食となり、
そして少年の不毛にして甚大な怒りは、その後部屋の半分を壊滅させるまで、収束する事は無かったのだった。

 

 

◆end◆

 

それが大人のやる事か。