息つく暇も無いくらい

全てがあの男で埋まる



あっという間の、出来事だった。
別段何をしていたという訳ではない。
ただいつものように他愛も無い会話(どちらかといえば口喧嘩に近い気もするけど)を交わしていただけだった。

それなのに。
突然。
神妙な顔で黙ったかと思えば瞬間、口を塞がれてしまって、いた。

余りに急激な展開に直面した自分は、当然のように何が起こったか分からなくて。
とりあえずここはユニット内に数ある老朽化した倉庫のひとつで。
その中の不足している物資をチェックするという地味な手伝いを(無理矢理)仰せつかっていて。
文句を云いつつ、それでもきちんとこなしていたのだ。自分は。
あと棚ひとつだったのに。
手伝いを云い渡した張本人によって、それは中断されてしまった。

 「ちょ、っ…、と」

余りの前置きの無さに驚いて、そんなものに驚いている自分にも驚いて。
いやそういう問題じゃないと我に返ってようやく抵抗を試みるが、どうしたって敵う筈も無く。

 「…っ、」

結局何故かキスなんかしている。

請負人と。
あんな男と。というか男だ。そこからしてまず間違ってる。

さっきからずっと、理性的で常識人な自分が頭の中で警鐘を鳴らしっぱなしだ。
けれどその、少しだけ乾燥した、他人の唇の感触を、温度を甘んじて受け入れてしまう自分も居る。
この男はキスが巧いと思う。
もっとも、他の人との経験が無いから詳しくは分からないのだけれど。
…そこまで考えて悲しくなった。

 「ゲイナー」

聴き慣れた低音に意識を引き戻されて、顔を上げる。唇を離した男が、怪訝そうにじっとこちらを見据えている。

 「前から思っていたんだが、それは癖か?」
 「…何がですか?」

いつの間にか壁に押しつけられた背中が、少し痛い。

 「最中色々考えるの」

バレていたらしい。
返答に詰まったのを肯定と認識したのか、男は少しだけ肩を竦める格好をした。
そういう妙に芝居掛かった姿もサマになるのが彼らしくて、理不尽にも腹が立ってしまう。

 「じゃなくって、何なんですか突然」

強引に話題の主導権を手繰り寄せる。
心持ち弱くなった拘束から逃れようと身体を捻ったが、やっぱりその囲いから出る事は叶わない。

 「何が?」
 「だから、なんで…キスなんか」

口に出したらますます悲しくなった。
本当になんでキスなんかしているんだろう。

 「嫌だったか?」
 「嫌に決まってるでしょう」

何を分かりきった事を。
即答されると傷つくなァとか何とか云いながら、けれど男の口許は緩く綻んでいる。

この口が。
唇が。
駄目だと思う。

 「とにかく離して下さいよ。あと棚ひとつで終わるんです。手伝えって云ったのあんたですよ」

何事も無かった風を装いながら、手に持っていたリストに視線を落とす。
日用品、工具、雑貨、その他諸々。ここの倉庫は足りないものだらけだ。

 「ゲイナー」

もう一度、名を呼ばれた。
思うにこの声も駄目なのだ。
微かに掠れた、艶のある低音。
今度は顔を上げなかった。そうしたら男の顔が近づいてくるのが気配で分かった。
とどめのように耳許に、

 「じゃあ、何で抵抗しないんだ」

ひそ、と吐息だけで囁かれて。

 「抵抗したって無駄だからですよ」

答えれば耳朶に、笑みを含んだ吐息がぶつかる。

 「素直だな」
 「無駄な努力はしたくない主義なんです」

嘘をついた。

こんな自分を、相手がどう思っているのかは知らない。
知る必要も無いし、知ったとしてもどうにもならない。本能的に、そう思う。
それまで黙って聴いていた彼が、目を細め、僅かに顔を動かして距離が一層近くなる。

 「全てにおいて諦めてるって訳か。それとも肚をくくったのかい?」
 「どうでもいいでしょう。あんたには関係ない」
 「それもそうか。…しかし、それなら」


そんな世界の終わりみたいな顔するな。


真顔で囁かれた。
金縛りに遭っている隙を突いて、再び唇が重なる。

最悪だ。
よりにもよってなんて事を云うんだ。

バカ。
バカだ。本当にバカだ。
先程よりも強く、深い口づけは、動揺する頭を更に攪乱した。
唇だけでは飽き足らず、舌がするりと口内に進入っていく。
同時にぞくりと背中に何かが伝う。おざなりの快感。でも、何時まで経っても慣れない。

 「…ん…っ」

自分の領内を浸食される息苦しさと圧迫感。そんなものが綯い交ぜになって、胸を引っ掻いた。

 「………っ、は」

息継ぎ。
タイミングを図ったように眼鏡を奪われる。
そんな余裕の用意周到ぶりが腹立たしくて。
対する自分は酸素を口に入れる事だけで精一杯で。
余裕なんか欠片も無かった。

 「分かったか?」

問われたって返事なんか出来ない。何が分かったのか分からない。
喉から顎、輪郭を伝って、筋張った指が髪で隠れていた耳へ無遠慮に触れる。

 「なにばかなこと…っ」

やっとの事で出た文句は、あっさり舌で搦め取られた。

どうかしている。
こんな状況も、
こんな関係も、
感じてしまう自分も、嘘つきなゲインも、
この倉庫の暗闇に呑まれている全てが。

視界を遮断したくて目を瞑れば、逆に感触がリアルになって身体が震えた。
それなのに頭の芯は、持続的に与えられる甘い快感で弱々しく痺れている。
この唇で、舌先ひとつで容易く陥落してしまう自分が、情けなかった。

けれどキスは、拒めなかった。

一呼吸置いて、唇が、離れる。
ぴちゃ、と濡れた音が耳に響いて、羞恥心がじわりと全身に染み入る。

 「その顔。実は結構罪悪感に苛まれる」
 「…なら、しなきゃ、いいじゃないですか。キスなんか」
 「それは出来ない」

じわりと頬が熱い。
勝ち誇った顔、強い眼差し。
真っ直ぐ過ぎてこっちが恥ずかしくなってしまう。
無駄に自信があるこの男を、敵に回すのはとても面倒くさいから。
長いものには巻かれろ、では無いけれど。

 「…バカじゃ、ないんですか」

視線を逸らして、腕を廻した。

 「そんな事云うの、」

後にも先にも、きっと。

 「…あんただけですよ」

何が嘘で何が本当か、自分にはもう区別がつかないし、多分この男だって似たようなものなのだろう。
この関係が恋なのか、暇潰しなのか。
複雑すぎて分からない。
けれど、この温もりだけは信じていいのかもしれない。
ずるずると、不足分を記した紙の束が、指先から頼りなく床に落ちる。
絆されて、呆気なく、力無く、陥落。



まるで自分みたいだ、とバカな事を思った。

 

 

◆end◆

 

諦念感溢れる可愛げの無いゲイナーも好きです。
「馬鹿」より「バカ」の方がちょっとこう、愛しげ、な感じがしませんか。