時間毎に空気の匂いが変わるという事を、この土地に来て初めて知った。
「ゲイナー!」
夕暮れの中。顔を上げ、ズレた眼鏡を掛け直すと、サラが手を振っているのが視界に入る。
辺り一面に拡がる畑、それを包み込むような緑の草木。ちいさな花々。
ガウリ隊の有志達で作った、お世辞にも住みやすいとは云えない少しだけ屋根の傾いた小屋と、
その前を流れる浅い小川の淵で、アナが両足を水面につけながらリンクス達を遊ばせている。
ヤーパンでは、初夏、と呼ばれる季節。
一日の半分以上を外で過ごすせいか、照りつける強い日差しのお陰で肌がぴりぴりしていた。
肘の辺りで捲っていた袖を元に戻し、橋を渡れば、同じように日に焼けたサラがこちらに向かって駆けてくる。
両手には麻で編んだ手製の籠を大事そうに抱えて。
「どうしたの?」
「実エンドウがね、沢山取れたから豆ごはん作ろうと思って…顔、土ついてるわよ」
ふふ、と笑いながらウエストの部分に引っ掛けてあったタオルで頬のあたりをぐいっと拭われた。
両手が塞がっているので仕方が無いとはいえ、されるがままの自分が何と無く気恥ずかしい。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
こちらに来てからのサラは、とても元気だ。
以前住んでいたシベリアと気候風土も環境もまるで違うこの土地に、慣れるまで時間の掛かったピープル達が多い中で、
サラは誰よりも溌剌と動き回り、いつも健康的な笑顔を振りまいていた。正直、自分も彼女の笑顔で何度救われたか知れない。
「畑仕事、もう済んだなら手伝ってくれない?エンドウの鞘取り」
なかなか楽しいわよ。と軽やかに笑う。ピンク色の髪の毛が頬の辺りでふわりと揺れる。
そんな姿に見惚れつつ、じゃあ先にコレ片付けてくるよ。と、肩に担いでいた鍬を降ろした。
今でも信じられない、と思う時がある。
この自分が種をまいて、土を肥やして、野菜を育てているなんて。
単調だと思っていたその作業は、けれどやってみるとなかなか思い通りにいかず、
周りの人達の助けを借りて花を咲かせ、やっと初めて実をつけるところまで漕ぎつけた。
あの小さな小さな果実を見た瞬間のなんともいえない気持ちは、言葉には云い表し難いけれど、
今でも大切な思い出としてこの胸にしっかりと焼き付いている。
汗で濡れた首筋をタオルで拭いながら、ガタン、と作業道具を納屋の片隅に置いて、辺りを見回す。
場所の空き具合からして、どうやら他のメンバー達はまだ各々の仕事から戻ってきていないらしい。
今となっては自分はのんびりと畑仕事を楽しんでいるが、他のガウリ隊メンバー達はその他の仕事として、
自分達で作った食糧の販売ルートの確保、ピープル達の治安維持など、毎日そこかしこを飛び回って働いているのだ。
勿論、オーバーマン出動の要請が出た場合は自分だって例外では無いのだが。
程良く疲れた身体をほぐすように軽く伸びをし、くたびれた木製の戸口を開けて外に出ると、
サラはすぐ傍の土手を下った小川のほとりに腰を降ろし、隣でリンクス達を肩に乗せて座っているアナと何か楽しそうに談笑している。
「あ、ゲイナー!」
先にこちらに気付いたアナが、満面の笑顔を一杯に広げて大きく手を振った。
白い薄手のワンピースを着た元・捕われの姫君は、一年という短い月日で随分大きくなった。
この年頃の子どもは皆ぐんと成長する時期なのだろうか、それでもやはり彼女の成長は誰よりも顕著だと思う。
「エンドウの鞘取り、面白いですよ。指にあたる豆のころころっていう感触がとても気持ちいいんです」
「アナ姫、すごく上手。はい、これゲイナーの分」
サラの隣に倣うようにして腰かけると、ザルに乗った洗い立てのみずみずしい実エンドウの山が目の前に差し出された。
「すごい量だね。こんなに取れたんだ」
「太陽がよく照ったからね、実もまんまるよ」
ふっくらとした鞘に軽く爪を立て、スッと糸状に細い鞘のスジを器用に引きながら、サラが笑う。
小川の流れる音に混じって、鞘取り作業に興味津々のリンクス達に邪魔をされ、彼等を叱るアナの声が時折上がった。
その度に、彼女の足が水中で立てるパシャパシャッ、という涼しげな音。
夕暮れ、少しだけ早い、ヒグラシの鳴き声。
控え目な薄い橙色の夕日が、三人をゆっくりと照らす。
何もかも嘘みたいな平穏の中で。
静かな暮らしと引き替えに、失ったもの。
「ゲインがね、云ってたのよね」
「…?」
ぽつりと。
不意にサラが呟いたその名前に、鞘を摘む指先が無意識に止まった。
「ヤーパンに着いて、しばらく経った頃かなぁ。新しい土地に慣れなくって、頑張っても頑張っても全然成果が出なくて、焦ってた時」
少しだけうつむいた彼女の横顔は、睫毛が夕日と同じ橙色に染まって、淡く日に透け、とても綺麗だった。
「…でも私、ずっと笑顔でいようって、何があっても笑ってようって思ってて。
みんなそれでなくても不安で一杯なの知ってたから、せめて私が笑う事で誰かの心を安心させる事が出来たらなって、思っていたの」
今思えばそれもおかしいんだけどね。
照れるように苦笑して、一旦言葉を切った彼女は再び鞘を取る作業に手を動かしながら、
ゆっくりと、大切な言葉を選び取るように、隠してあった思い出をたぐり寄せるように、口を開く。
「そうしたら、ゲインが『無理して笑う事無いんだぞ』って。
全然関係無い話してた時に突然云ってきて。『笑いたい時に笑えばいい』って、びっくりするくらい真顔で」
ゲインの。
あの請負人の声を、顔、背中を、思い出す。
誰にも話した事は無いし、きっとこれからも話す事は無いだろう、彼と交していた密やかな関係と、別離。
「今目の前にある事を何も考えずやっていけば、この苦しい時も、
いつか振り返って笑える時が来る、って。自分はいつだってそうしてなんとかやってこれた、って」
彼がヤーパンを去る前、誰も見ていない処で、お互い馬鹿みたいな大喧嘩をした。
無責任だとなじる自分と、それでも旅を続けようとするゲイン。ついて来るかと云われ、行ける訳無いと泣いて拒んだ。
全てを捨てて彼と行くには、ここには長く居過ぎたのだ。
思えばあんなに泣いたのは生まれて初めてで。
自分の中にこんな嵐のような感情が潜んでいた事に、驚いて。
「聞いた時はそんなバカな事って正直思ったけど、でも…今こうして笑えてるって事は、やっぱりゲインは正しかったんだね」
最後のエンドウ豆をぱらぱらと籠に落下させた後、一息ついたサラはこちらを覗き込んで、
「だからきっと、帰ってくると思うの。」
にっこりと、笑った。
「…え?」
「ゲイン、結構いい加減な事も云うけど、嘘つかないもの。だから」
帰ってくる。
別れの朝、穏やかに耳許に告げられた言葉。
泣き過ぎて頭がぼんやりしていたし、声もかすれて返事も出来なかった。
だから。
行ってらっしゃいも気を付けても、ごめんなさいも云えなかった。
何も云えなかった。
「ゲインは外の人だって、サラ云ってたじゃないか」
「あら、良く覚えてるのね。でもねゲイナー、時間は進んでいるのよ。状況は変わっていくの」
このヤーパンの、めまぐるしく変化する季節のように。
「だから今度はちゃんと、おかえりなさいって云ってあげなきゃ」
トン、と踵を鳴らして立ち上がったサラは、薄緑の丸い豆が山盛りに積まれた麻の籠を小脇に抱えると、
リンナを捕まえに少し離れた場所まで走っていったアナに声を掛ける。
「さ、私達も帰りましょう」
顔を上げ、空を仰げば夕焼けの橙は何時しか薄紫に色を染め変えていて。
西の空には小さな白い光もポツリと灯り始めている。
差し出された手を、少しだけ躊躇って、その後そっと、握って。
サラとアナと、リンクス達と帰った。
こんな風に流れる時の中で、彼を待てたらいいと。
何時までも待ち続ける事が出来たらいいと、思う。
彼の帰る場所は、きっとここに。
この豊穣の地に、あるのだから。
◆end◆
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某イラストのオマージュです。
ヤーパンへのエクソダス成功後も、ゲインとゲイナーは2人で旅をするなり、請負人稼業を続ける
なりして一緒に居るんではないか、というのが自分の考えで、それはこれからも変わる事は無いのですが、
放浪を続けるゲインの帰りをヤーパンで待つ?ゲイナー、というもうひとつの可能性、という感じでこのお話を書いてみました。