あの時の事は、本当は、余り覚えていなかった。

ただ、とにかく寒くて、怖くて、つらくて、絶望で胸を凍らせて。
見るもの全て、
感じるもの全てが、憎悪の対象になった。
サラに酷い言葉をぶつけた。
アナにも、ガウリ隊長や五賢人達、そしてゲインにも。
全てが凍りついて、ぼんやりとしていた。
視界に映るものが白く冷たかった。感覚がとても曖昧だった。
ずっと続く不快な気持ち。底から冷えるような怒りは自我を壊していく。

それでも。

サラの涙だけは、忘れられなかった。

 『あたしは…あなたに…っ』

泣きながら名前を呼んでくれた。
その言葉の続きは嗚咽で消えてしまったけれど、
悲しい、そして真剣な眼差しで、彼女は何かを伝えようとした。
サラは優しかった。
けれどあの時の自分は、その優しさが許せなかった。
彼女の唇はあたかかった。生きている、その温もりだった。感触は柔らかくて、優しくて。
冷徹な言葉を吐き棄てて、サラの想いを疑い追いつめ突き落として、そして全てを凍らせた。
どうして今更、どうしてキスなんてするんだろう。
変わってしまった自分に対する、それは憐れみなのだろうか。
とめどなく湧き出る薄暗く醜い心の闇が、胸の奥底でどろどろと渦を巻く。
嫌だった。苦しかった。寒かった。ここから出ていきたかった。

サラに。
もう一度逢いたかった。

 「やっぱり寒いかな、戻ろうか。…シンシアを呼んでくるよ」

声をかける。サラは何も云わず、弱く笑って頷いた。
本当は、分かっていた。
あの時から彼女が自分と少し、距離を置いている事に。線を、引いている事に。
気まずい雰囲気を引きずりながら、無言で彼女に背を向けて、シンシアの居る方へ歩き出す。
シンシアは華奢な背中を小さく丸めて海を見ていた。
真っ白い大地、そこから切り取られたように広がる大きな海を。
流氷に覆われた、それでも色鮮やかなヤーパンへと続く、水平線を。
サク、と。
踏み出して、

 『知らない土地へ、行ってみたいと思わない?』

足が止まる。

 『ミイヤ様のように私は生きたい』

これは。
この景色は、サラ。

 「…サラ!」

気づけば、振り返って名前を呼んでいた。
伸びた足跡の始めにぽつんと立っていたサラは、泣きそうな顔でこちらを見ている。
まるで一人置いていかれて、途方に暮れる小さな子どものような表情。
深々と積もる雪に何度も足を掬われながら、それでも早足で彼女の許へ駆け寄る。

 「どうしたの?ゲイナー」

戻ってきた自分を不思議そうに見上げながら、鼻を赤くして、まつげを微かに凍らせたサラが静かに笑った。

 「シンシアの所に行くんじゃ……」

寒さに耐えているのか、自分の身体を抱きしめるように回している両腕を、ぐい、と外す。
突然の出来事にあっけなく解けた左腕、無防備になったその白い左手に、自分の右手で触れた。
もう、逃げない。今度は絶対に逃げない。彼女の引いた線を、踏み越えてそのままぎゅ、と握り込む。

離さないように。
離れないように。

 「一緒に行こう、サラ。海を見よう」

だってこの景色は、この、希望へと続く青い海は、彼女が一番見たかったものだと思ったのだ。
彼女が夢見た豊穣の地が、海を渡ったその向こうにある。本当に存在すると実感出来る、現実の景色。
呆然とこちらを見ていたサラは、その言葉を聞いて少しだけ黙った後、その青く澄んだ瞳を柔らかく細め、嬉しそうに笑った。
お互いぎこちなく指を絡め、黙って手をつなぐと、一足先に海を眺めているシンシアの方へ、ゆっくりと歩き出していく。
合わない眼鏡のおかげで、軽く俯いたサラの表情は良く見えない。自分の強引さに、本当は今でも胸がどきどきしている。
だけど。

つないだ指はあたたかく、そして全てを包み込むように、優しかった。