住職の法話

「いただきます」

出された料理を食べるときの挨拶の言葉(広辞苑)。何も辞書で調べるほどの言葉ではないでしょうが、今この言葉が学校の給食の場で言いにくくなっていると聞きます。手を合わせるのが仏教教育になるとか、給食費を出しているのだから、いただきますといわなくてよいという親がいるとか。
 「いただく」は、頭上たかくに位置させること、高くささげること。また、「もらう」の謙譲語でもあります。頂戴する、ありがたくもらいます。という意味も含まれているのです。

私達は、食事をするときには自然に手を合わせて「いただきます」といいます。この言葉は誰に対して言うのでしょうか。料理を作ってくれたお母さんや家の人に。また、よその家でおよばれするときは、その家の人に言うと思います。でも、それだけでしょうか。

ごはんやおかずに対しても「ありがたく もらいます」という気持ちでいうのです。そこには、あらゆる物にたいする感謝の心があらわされているはずです。合掌は、寺へお参りした時、おくやみで焼香するとき、家の仏壇へ参るときなどの宗教行為です。それがどうして食事のときの挨拶言葉と連動して、合掌するのでしょうか。
 東南アジアの仏教国では、合掌は仏にだけでなく、人に対しての最上の礼となっています。私はあなたを攻撃しません。手になにも持っていません。南無(=帰命)、あなたを尊敬し、信頼します。その動作なのです。宗教を超えた日常行為でもあるのです。日本での、手を合わせ「いただきます」の行為もよき伝統の上に形作られた日常行為であると思います。

 永平寺や総持寺などの修行道場では食事の時にはいくつかの偈文を唱えます。修行僧(雲水)は自分の食器(鉢=応量器といって大小五つの器を一つに組んだもの)を持って食堂(僧堂)に入ります。そして食器を並べながら皆で唱えます。まず「展鉢の偈」。給仕してもらいながら「施食偈」そして「五観の偈」。 さらに自然界の生き物に供養施食する「生飯偈」(さばげ)。そしてお粥(朝食)、又はご飯の入った鉢を両手で目の前の高さにささげ持って次の偈を唱えます。「フ鉢の偈」=けいはつの偈です。

  下及六道、皆同供養

  一口為断一切悪  二口為修一切善

  三口為度諸衆生  皆共成仏道

今からいただくこの食事は、まず、仏法僧の「三宝」に捧げます。次に、「四恩」に感謝します
しおんという四つの恩は、「父母の恩」、「衆生の恩」、「天地(国王)の恩」、「三宝の恩」の四つです。  自分が今ここに存在するのは、この命をもらった父母のおかげです。その命は、単独で生きておれるわけはなく、多くの人々(=衆生)の営みや支え合いがあってのことです。

さらに、自分たちが生きて、社会をつくることのできるのは、あめつちという大地の惜しみない恵みがあるからです。また、国が争いなく平和に治まっているならば、昔は国王、今は統治に責任ある人々に感謝する気持ちを持つことが大事。そして仏教徒として、仏祖釈尊、その教え仏法、仏教徒仲間を三つの宝とする「三宝」。以上の四つの「四恩」に、食事をする果報を分ける気持ちをもって、いただくのです。

そしてさらに、六道世界に供養することを心に念じます。「六道」は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つで、人が現世での自分の生活行為によって、死後に生まれかわる世界のことです。輪廻し転生するという六道世界のすべてに慈悲の心で「皆同供養」、わけへだてなく、すべて同じように供養するのです。次に、何の為に食べるのか。「一口為断一切悪」。一口食べては、一切の悪い行いを断つ為を誓います。「二口為修一切善」、二口食べては、善い行いはすすんで行う為を念じます。悪行は、他人や社会や自分自身にも悪いと分っていながらも、甘い汁を断つことができないものです。一方の善行も、人の喜ぶことをどれだけできるか、自分のことだけでも、体によいと分っていても出来ないことが多いものです。 そして。「三口為度諸衆生」、三口食べては人びとを迷いの多い此の岸から、救い出して彼岸(悟り=幸せ)の世界に渡すことのできる人になる為の努力をします。最後にまとめとして、「皆共成仏道」、皆ともに仏道が成就することを願います。

ものを食べると言うことは、他の命をもらって自分の命にすることです。自分を大事と思うなら、他の命も一つ一つみんな大事な命です。食べた命の分も含めて皆共に幸せになるために、だから手を合わせて「いただきます」。