佐藤継信公・忠信公の墓 弁慶の笈




芭蕉は元禄2年【1689】陰暦5月2日、46歳の時「奥の
細道」の行脚で医王寺を訪れています。
伝え聞いた佐藤一族の忠孝、その墓を詣でて懐古の情
断ち難く当寺を去り、その夜は飯坂温泉に宿をとりました。

悲劇の武将兄弟
主君を守るべき使命をおびた継信・忠信兄弟は平家と
の対戦でめざましい活躍をするが兄継信は屋島の合戦
で義経の身代わりとなって討ち死にしました。

一方、弟忠信は、後に頼朝と和を失った義経とその一行が京都で苦境に陥った時、主従を脱出させるため、義経
の身代わりとなって討ち死にしました。


また兄弟の奥方たちは老婆、乙和御前の悲嘆を察し、
悲しみをこらえて甲冑を身に着けて兄弟の凱旋の勇姿
を装い姑の心を癒したという故事が伝えられています。




 笈も太刀も
  五月にかざれ
  紙幟    芭蕉

  五月、端午の節句も間近いので、あち
 こちに紙製の鯉のぼりが泳いでいる。
 この義経の太刀も弁慶の笈も、一緒に
 飾って欲しいものだ。


乙和の椿

乙和御前夫婦の墓碑の傍にある古木で、
乙和御前の悲しみが乗り移ったのか
つぼみのままで開かず落ちてしまう椿です。


咲かで落つ椿よ西の空かなし   黙翁


 太刀佩いて
  武装悲しき
  妻の秋 
  自得



  わが子二人までも失った老婆乙和
  御前の悲しみは大きく、それをど
  うにかして
慰めたいと計り、兄弟の
  武将の姿になり姑を慰励したという姿の
  人形がまつられています。





                                                       
          みちのくの史跡信夫文知摺(しのぶもちずり)
                                                       
 かって
この地は、綾形石の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形など
 を摺り込んだ風雅な模様の、しのぶもちずり絹の産地でした。
 その名残りを伝える文知摺石は、都からの按察使 源融と長者の娘虎女の
 悲恋物語を生み、小倉百人一首にも詠まれました。
                                                  
     
みちのくの 忍ぶもちずり 誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに
                                                  
                                   河原左大臣 源 融

                                                  
                                                  
 この地を訪れた芭蕉も一句したためています

                                                      
     
早苗とる 手もとや昔 しのぶずり          芭蕉














BGM
byうみねこ音楽工房
toki