kuroやんのくるま遊びプロフィール

最初に免許を取って買った車は、スターレットKP47でした、、当時少年ジャンプ連載のサーキットの狼(主人公がロータスヨーロッパでフェラーリやポルシェと渡り合う街道レーサーで最後はF1に乗るストーリー)。にかなりはまって、しまいました、それからは街道レーサー気取りで赤いストライプを入れた、、スターレットの改造がはじまりました、エンジンは中古で鈴鹿を走っていたカローラの3Kエンジン(ウーバーキャブ、ビッグバルブ、ヘッド面件、etc)を6万で買って、ストレートマフラー、タコアシなどつけて、峠道を走り回る毎日でした,その結果、新車で買って1年めには6万キロオーバーになってしまいました。エアクリーナを付けずファンネルで走っていたので、エンジンは終わってしまいその後大学中退してから、セリカリフトバック2000GTに乗り換えました、イタリアンレッドに全塗装されていてタイヤは245/50/13と言う今ではレアなサイズを履いていました。半残念ながら自損事故をしてしまい、廃車にしてしまいました。それで、金がないので18万でサバンナ(RX3)というクルマ(今は知らない人も多いかな)に乗り換え10Aのエンジンを12Aに載せ替えて黄色と黒のツートンカラーに全塗装してショックのみKYBのスポーツダンパーに変えて乗っていました、下の写真がその車です。



その後今のチームTTRMの先輩に出会って、峠道ばかり走ってないでジムカーナでも出ないか? と、さそわれて、ジムカーナの初参加しました。今思うと、当時の自分みたいな、暴走族風なものを、よく誘ってくれた、と感謝しています。
年は21歳でした、初参加は鈴鹿の教習所あとのような、コースでした。公道では負け知らずでしたから、かなりの自信で挑んだのですが、結果真ん中くらいの順位で自信をなくす結果で終わりました。
次のクルマがマツダRX−7(SA22C)でして、当時ジムカーナのメジャーな車でした。一応改造クラス(C1)で出ようと思い、ロールバ、サーキットブレーカ、軽量化、マフラー、などの定番アイテムを装着して挑みましたが、いまいちクルマも中途半端で、成績もいまいちで、そのSA22CRX7は公道も走れる仕様でした。



その後サニーB110のC1を作って出たり、カリーナGT改1750cc仕様のD車(名ばかりの)
で出たりしましたが、中途半端に終わりました、これも下の写真ですね。。


ここまでは、親しい友人とダブルでエントリーしたりしていましたが、お互いに本当にしたいのは憧れている、レースでした、その友人はやっぱりレースをしたいと言ってFJ1600を買って鈴鹿のレーシングガレージに預けて鈴鹿のスポーツ走行のほうに行ってしましました。今もそうですが、レースに対する憧れはあって、鈴鹿が近く身近に感じてたこともありましたし。
でも、レース(鈴鹿フレッシュマン)するお金はかなりの出費になることが判明当時の私の収入(今もですが)では無理でした
その友人はその後中古のFJ1600を買ってスポーツ走行をしていました(その後F4の中古に)。
そこで、自分の場合は真面目にジムカーナしてみようと、初心に帰り、CR−XSI(AS)を買って、まずは、当時新規オープンした、名阪スポーツランドからはじめました、初めてSタイヤと言うものを履いてから、最初は9位に入賞しました、当時A2クラスは100人以上のエントリーが当たり前の時代でして、15位までは、入賞圏内でした。
そのCRXですが、初めてFFと言うものに乗ったのでアンダーの強いのには驚きました(SA22Cと比べて)

当時はパイロンなんて無い時代で、練習ももっぱら、近くの峠道でした。
三重県と言う土地柄1時間程度で行けるので、ライセンスはD地区でありながら、名阪と鈴鹿のみ
出ていました、
そのころ、嫁の車が軽自動車でセルボ(SS20)に乗っていて、当時軽のジムカーナが名阪でありそれに1度エントリーしたことが、ありました、結果優勝で2位と約2秒差で、改造クラスでも3位に入れるタイムでした、そのイベントがカー雑誌カーロードに掲載された時の写真です。(1ミリオーバーサイズピストンと自作マフラーとフルバケ以外はノーマルでした)
白いセルボがそうです。(このリアエンジン2スト3気筒のセルボがメチャメチャ面白いコーナリングマシンでした)


その後新しいチームSSCCが発足してから、中部で参戦するようになりました、でも、中部のレベルは高く今一の成績で練習の必要性を感じました(とくにパイロン)その後ASでやっと中部戦で9位 5位と言う順位に入ることができました。
その後競技車をCRXsiR(EF8)に乗り換えました。そのクルマでまず、東海チャンプを取ることができました。
その後現在の全日本ドライバーのEXEの中島さん、池田さん、Cクラスチャンプの藤田さんと練習や中部戦にエントリーして、今では、最高の楽しい思い出です。練習も○山高原の某場所や野球場の某場所で練習を毎週していました。
その成果か’97年に中部選手権A2クラスチャンプを取ることができました

次の年の競技車がシビックタイプRでしたが、これが当初遅くて、(真っ直ぐも)軽量化、やセッテング、などに悩まされました。ただ、当時鈴鹿クラブマンレースの主力車種であり、EKに対する憧れもありました。ミーハーですが。 幸い次の年から改造がかなりできるようになり、N1チックに仕上げたいと言う思いもありましたし。  
その後2年ほどして、中部戦でシリーズ6位に入賞できるとこまでは来ました。その後A2の時代は終わり現在のS1クラスにかわりました。S1最初の年は4位で終わりましたが、シリーズ終わってからは全国オールスタージムカーナで3位入賞ができました。05年でやっと、 SA1シリーズ 1位 でした!来年もSA1で走る予定です。



今年からは、中部もやっとタコ足のみ交換OKになりました。