くらしのなかで

1997.02


たまごっち
−この社会現象に見える危機感のこと−


  先日、筑紫哲也が夜のニュースで
「最近の子供達は実感ということをしない。」と言っていた。
これにはドキリとさせられた。
  バーチャルリアリティ(仮想現実)は、いつの間にやら
我々の生活に根付いている。
TVゲームで自分は格闘家になれるし、
オートバイのレーサーにもなれる。
パソコンの中では熱帯魚が飼えるし、
女子高生とデートもできる(らしい)。
筑紫哲也の言葉で改めてこのことを認識した。

  今“たまごっち”で日本中が大騒ぎ。
『デジタル携帯ペット』というたいそうな称号まで授かっているのだ。簡単に言うと卵の形をしたミニゲーム。
餌をやったり、トイレの世話をしながら育てていく。
これもやはりバーチャルリアリティ。みんなこぞって
これを買いたがる。お恥ずかしい話だが私も欲しくて仕方がない。
今欲しいものは何?と聞かれたら、答えは迷わず“たまごっち”。
芸能人も皆これに夢中。「なんだか情が移っちゃって」
「つい母親になっちゃうんですよ」etc・・・。ここでマテヨ。
“たまごっち”をすることが母親になることなのか、
いやそんなはずはない。

生き物(人間に限らず動物、植物でも)と付き合うことは
そんなに生易しいものではないはずだ。あたりまえのことだが
ゲームでは済まされない。もっと真剣なものであるはず。
先日も、あるタレントが“たまごっち”が死んじゃたーと騒いでいた。
そんなに簡単に『死』に付き合ってもらっては困る。
死はもっと尊く奥の深いもの。人間にリセットのボタンはない。
そんなに簡単にやり直しはきかないのだ。
と、そこまで自覚した上で“たまごっち”に向き合いたい。
決してするなとは言わない。私もやりたくて仕方がないのだし。

又、“たまごっち”を反面教師に捉えてみると、
私達の建築設計という職業、
設計の過程でいやがおうにも人々のくらしに関わってゆく。
これは、仮想現実でもなければ、ゲームでもない。
建築設計を通して人々のくらしの実感というもの、
まさにそのものに向き合っている。
少し大げさだが、家族の生活(の実感)を設計している
と言えないこともない。
実感、非常にシンプルな言葉だが、
どうやら非常に重要なことのようだ。
しっかりと見据えていかねば、と
雪の降った金沢の夜、しみじみと思ったのだった。