熊野古道と熊野観心十界曼荼羅

伝 来
 當寺にこの曼荼羅絵図が伝ったのは明和八年(1771)に平見長九朗の 妻が當寺に涅槃図と共に寄進された。傷みも酷い為か近年人目に見せることはなかった。 昭和五十九年に先代(十四世)が私財を投じて修繕表具して現在に至る。 これまで十界の図として什物に記されていた。
此れが熊野観心十界曼荼羅と判ったのは 平成十八年夏、三重県の文化振興室県史編さんグループの方々、奈良市元興寺 文化財研究所の方等が別件にて地元のお宮さんを訪れたときにたまたま當寺に立ち寄られた事により 判明しました。
 熊野観心十界曼荼羅は是までに全国に約43点が見つかっておりそのうち三重県には13点見つかっている。 當山は14番目に見つかったものである。
県内では津市周辺、二見、志摩地方に点在している。
伊勢神宮より熊野までの街道筋で当曼荼羅図が見つかったのはここ宝泉院だけであり 又、三重の曹洞宗寺院で保有するのは當寺だけと思われます。
なぜ街道筋から離れた當寺に伝わったかは当時の有力者の妻が寄進とだけ記してあり詳細は不明。過去帳を紐解くとその妻が亡くなる数十年前に 没した比丘尼が二名有りこの比丘尼は熊野比丘尼かどうかは不明ですが  もしかして、二名の比丘尼は熊野比丘尼で諸国への勧進のあと熊野へ帰路の途中当地で病に臥し没し,その時に土地の有力者に曼荼羅図を預け たのかな、又は紀州藩の宗教改正令で使用しなくなり金銭と交換したのかな等と勝手に推察しています。
 熊野信仰は平安時代に始まり、中世から近世初期末期にかけて男女や身分の差を問わず多くの参詣者を集めました。当時、熊野本願寺院の配下 にいた熊野比丘尼達は、熊野詣をPRする為に全国行脚に曼荼羅絵を折畳んで携行し人の参集する往来に掛け広げ仏教的思想の「絵解き」 を行いながら浄財を集め熊野参詣を多くの人に勧め信仰の普及拡大に努めました。

熊野古道 紀伊山地の霊場と参詣道(熊野古道)が世界遺産に登録されました。
熊野古道を目指す人が多くなりました。 熊野古道 三瀬の峠、滝原神宮等が當寺より車で10分程の位置に有ります。
展示と絵解き お参りに来られる場合は前もって電話、メールを下さいね!
都合がつけば住職が熊野観心十界曼荼羅について簡単ですが絵解きを行い ます。 絵解き 住職の絵解き風景
通常の展示は写真パネルですがお彼岸時等に実物を展示する場合も有り
ます。又それ以外に10人前後のサークルでの申込み時は実物を展示します。
このような本物を見れる機会は滅多に無いと思います。
(絵解き、又実物展示の場合は維持保全のため拝観料を頂きます。 詳細は問い合わせ下さい TEL 0598-87-1248)

熊野観心十界曼荼羅概略

大きさ(外寸)は 横=145cm 縦=216cm
上部部には人間の誕生から死までを人生の山坂として描かれまた季節の移り変わりも描かれている(諸行無常)。
中部には閻魔大王、施餓鬼供養、賽の河原等の死後の世界が描かれている。
また心を中心に赤い線が放射状に引かれ仏界、菩薩界、声聞界、縁覚界、天界、人間界、修羅界、畜生界、
餓鬼界、地獄界の十界が描かれており入り口には赤い鳥居が建っている。。 下部には8大地獄絵が生々しく描写されている。目連尊者のお母さんが地獄の釜茹で串刺しになっているのには驚きました。
尚、此れまで40数点見つかっていますが全く同じ絵は無いそうです。似てますがよく見ると各々に違っているのが 特徴だそうです。

抜粋図
人生の山坂閻魔大王の裁き
目連尊者と串刺しの母施餓鬼供養

展示と絵解きの実施

平成19年6月17日(日)10時より (後援:宮川流域ルネッサンス協議会)

この様子は中日新聞三重県牟婁版に掲載されました。

また平成19年11月1日の伊勢新聞伊勢志摩紀勢版にこの曼荼羅について
掲載されました。

大紀町文化財に認定される

平成20年5月7日大紀町の文化財に認定されました。

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