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略縁起

略縁起

 当山は、正式には「女人高野丹生山神宮寺成就院」と言い、地元の皆様からは 「丹生大師」として親しまれております。

 草創の歴史を辿ってみますと、宝亀五年(774年)弘法大師様の師匠である勤操大徳が開山され、その後時を経て、弘仁四年(813年)弘法大師様が伊勢神宮御参拝の途中、この地を訪れた際に来山され、御自分の師の開創された寺である事を知られ、「我は高野の聖地に、真言密教の根本道場を創立する誓願を建てているが、まずこの地に諸堂を建立し、庶民の苦悩を救わん」と言われ、弘仁六年(815年)に至って七堂伽藍を建立完備されたのであります。
(不動堂・鐘楼堂・閣魔堂・地蔵堂・観音堂・薬師堂・大師堂)。

 古くから「丹生水銀」 の産出地として富裕であったこの地は、中世に入ると一段と隆昌し、近世には「丹生の在家一千軒計り有りて民屋富みたる景気なり(勢陽雑記)」とある程になりました。また、寺も江戸時代中期頃には現在の寺観が整いました。

 大師堂の御本尊である「弘法大師像」は御大師様四十二歳の自画像で、寺院内の池に御姿が写され、「衆生の厄除と未来結縁」のために御大師様自らが刻まれて安置されたものです。二度の兵火にも無事免れ、今日なお霊験あらたかに御鎮座されています。


丹生の街並み

丹生の街並み 丹生は古代、水銀の産地として知られていた。その頃日本で使われていた水銀のほとんどが、丹生で採掘されたものと考えられています。

 有名な奈良東大寺の大仏にも、丹生水銀が使われていました。また、中世には全国唯一の水銀座(今でいうところの同業者組合)が存在し、全国から商人や鉱夫が集まり、「丹生千軒」と呼ばれるほどの繁栄をみせたと伝えられています。

 水銀は、仏像や調度品の金具などのメッキ、白粉に代表される顔料の材料としてたいへん重宝されましたが、中世以降は次第に産出量も減り、衰退していきました。丹生の歴史は水銀の盛衰とともに歩んできたといっても過言ではありません。

 近世の丹生は、伊勢商人発祥の地として、また「丹生のお大師さん」こと丹生山神宮寺(丹生大師)の門前町、宿場町として栄えました。
 真言宗の総本山・高野山が女人禁制であったのに対し、神宮寺は女性の参詣を許されていましたので、「女人高野」とも呼ばれ、多くの信者を集めてきました。丹生の街を見おろす雄大かつ壮大な山門をくぐり抜けると、境内には四季を通じて美しい風景が広がります。
 街は、この神宮寺山門の正面に広がり、今でも格子戸や土塀など妻入りの街並みや数多くの由緒ある寺院が残るなど、当時の繁栄を偲ばせています。

 

 
丹生大師「仁王門」
女人高野・ 丹生山「神宮寺」
〒519-2211
三重県多気郡多気町丹生3997
TEL 0598-49-3001

    
 
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