地域おこしグループ「一八会」
ホーム 一八会のルーツ 活動の成果 主な取り組み 長谷の年中行事
 
御田植祭
 
ホーム > 一八会のルーツ
一八会のルーツ
 すべては地域のために

■ 願い叶って

 近長谷寺の観音様を世に出したい。里人全ての願いである。そんな観音様にも一筋の光明が指したのである。1985年NHK津放送局が制作したテレビ番組「三重きたみなみ」で「千百年を生きた観音像」と題して登場することとなった。 くしくも観音像が建立されて千百年目に当たる年にである。

  十一面観音の秘密に迫るという企画に、里人も思いのほか力が入った。
 長年来の思いが実現したことで、気運は一気に高まり、これからの取り組みへの原動力として、大きな力となっていくのである。

 ちなみにテレビの影響力は絶大なもので、放映以降問い合わせや参拝客は急増したのは言うまでもない。


■ はじめの一歩

 最初は個人的な取り組みみとして700mある山道に中間点、胸つき八丁、やれやれ石などの標識を立てたり、観音様以外に楽しめる工夫が出来ないかと模索し、紫陽花の株をもらい受け、奈良の矢田寺に倣って境内を紫陽花でいっぱいにしようと、挿し木をするものも現れた。

 その後挿し木は順調に育ち、境内の外周を彩るまでになっていくのである。後日談であるが畑作物施肥用に購入してあった化成肥料を近長谷寺の紫陽花成育用に使ってしまい、親から叱られたこと、いま思えば懐かしい。

 Page Top
 人間死ぬまで勉強会

■ 玉井先生との出会い

 それぞれが活動を続けるなかで有志の勉強会も始まった。
 きっかけは、1987(昭和62)年夏、五桂池ふるさと村で開催された信州大学玉井袈裟男教授の「地域づくり講演会」に参加したことに始まる。

  「山奥だから人が来ない」「僻地だから注目されにくい」などと負の連鎖を考える我々に、玉井先生は逆転の発想を説かれた。
 「条件が悪いことを悲観する必要はない」「僻地だからこそ誇れるものがある」「あなたの地域に勝れる宝がある」でしょうと…。
 また、「人間は死ぬまで勉強会、常に自問自答しながら活動を続けていくことが大切だ」とも。



■ 「一八会」誕生

 幸いにも、我々の里には世界に誇れる観音様がいる(国指定重要文化財)。ここを拠点に活動を続けることが我々の原点ではなかろうか。
 多気の山奥だから十一面観音がある。「多気のチベットだから仏教文化が存在するのだ」というキャッチコピーを思いついたのはこの頃である。

 玉井先生のお話しに夢が膨らみ、先ずはじめの試みとして「除夜の鐘突き」をすることにした。
 どうせなら少人数よりも多いほうか楽しいという事で、1987(昭和62)年暮れ、忘年会を口実に地域の若者の集いを催し、楽しい宴のノリで除夜の鐘突きを提案。意気投合したのが「一八会」誕生の瞬間であった。
 ちなみに一八会の名前の由来は、観音さまの命日が一八日であることから一八会とした。



■ 除夜の鐘除夜の鐘

 記念すべき第一回目のイベント「除夜の鐘突き」は、口コミだけのPRにも関わらず55名が参加した。
 人間と言うのもは誠に勝手なもので来年こそ3桁にしようと次の目標も直ぐ立った。俗に言うリベンジである。
 翌年はというと105人と見事目標はクリアした。PRしなくてもここまでやれたんだから、ポスターを作って町内に貼ろうと言うことになった。それも近長谷寺にちなんだ大判の版画という凝り様である。
 この頃はといえば、新聞なども相手にされず、多気町役場にすら認知されなかった時代である。

  肝心の除夜の鐘突きであるが、年を重ねる度に200、300、400と参加者数は増え、ついには500の大台を越えたのであった。
 四半世紀を超えた現在でも毎年約350名ほどの参加者を得て「除夜の鐘突き」を行っている。


■ 「護摩」復活火渡り護摩

 一八会のもうひとつの柱である「十一面観音を中心とした地域づくり」がある。毎年2月18日、近長谷寺で開催される「春季厄除大会式」は、信者を中心にそれなりの参拝はあるものの知る人ぞ知るもので、イベント自体としては魅力に欠けるものであったのは否めない地事実であった。
 父の話によれば、我が家の御先祖さまは昔修験者でこの地方の代表格として、近長谷寺で柴灯御麻や火渡りごまを執行していたとか。この話が発端となり地区の長老たちの尽力もあって、1989(平成元)年2月18日、三重修験導会の協力のもと、近長谷寺に35年ぶり護摩が復活した。このことは新聞各紙に大々的に取り上げられた。
  こうした積み重ねの末、十一面観音とともに一八会もようやく表舞台に登場することとなったのである。一八会代表の逵氏の口癖「世に出すのに十年かかった」というのは、これらの苦悩を表していると言えよう。

  こうして地道な活動は実を結ぶこととなったが、活動の基本である楽しみながら背伸びせずすべて手弁当でという精神を踏襲出来たからであろう。

 このほかにも「観音様を中心とした地域づくり」や「まつりを通じた地元関係者との連携」など様々な活動を展開しているが、その内容については「主な取り組み」を、活動の成果については「活動の成果」でそれぞれご覧いただきたい。



■ 「車田」誕生
収穫祭

 さて初期の目標も達成できたいま新たな目標が見えてきた。

  観音さまだけではバリューも限られている。ここは新しい見所を創設してはという意見に、山里の豊かな自然のなかで都会の人達に故郷体験してもらえるようなものはどうかなど、夢はどんどん膨らんでいった。
 そこで考えた。先ずは「魅力とともに効果的なPRを兼ね備えたものが…」と。
 そこで写真を趣味に持つ会員の一人から、「被写体としても希少価値のある円形のたんぼ車田を作ってはどうか」と提案があった。
 カメラマンを誘致することで自ら広告塔になってもらおうという仕掛けである。一人で100人にPRしても所詮限界がある。「もし100人のカメラマンが100人にPRするとすれば…」比較にはならない効果がうまれる。なぜならば撮った写真は見て欲しいというカメラマン心理が働くからである。

 かくして、1998(平成10)年、逵代表自ら重機に乗って3枚の田んぼをまちあわせして円形の車田に仕上た。しかも十一面観音にちなんで半径を11メートルにするというこだわりようである。
 また、当時コラボレーションという言葉が多く使われたが、車田もしかりで、御田植祭挙行に当たっては、地元佐那神社宮司に事前に相談し、協働というスタイルでスタートすることとなった。




■ 「松阪紀勢生活創造圏づくり」


 一八会の活動は域内にとどまらず、町内他地域との連携や後に参画する松阪紀勢生活生活創造圏づくりへと展開を移していくのである。

 1997(平成9年)11月に、三重県が新しい総合計画「三重のくにづくり宣言」を策定し「開かれた三重を共につくる」を基本理念に、住民参画と市町村の広域連携でつくる生活創造圏づくりをあたらしい三重づくりの一翼を担うものとして位置づけた。
 2000(平成12)年3月、松阪・紀勢地域においても行政、地域住民、企業などが協働しながら、よりよい地域づくりを進めるため「生活創造圏づくり宣言」をまとめ、活動を推進していくための仕組みづくりがスタートした。

  当地域は松阪生活創造圏のエリアに含まれ、いわゆる地域づくりや街づくり活動をする団体同士や県や各種団体などと協働プロジェクトを推進することで、地域のことは地域でという住民活動を展開する仕掛けである。特に松阪地域は活動が盛んで県下でもトップクラスであった。

  我が一八会も「長谷の車田、田植えと稲刈り」「近長谷寺を中心とした地域づくり」など熊野古道「伊勢路」再生プロジェクトとしていち早く参画していた。




■ 情報メディアの到来
ホームページ「多気の地域情報」

 時代は進み、多気のチベットにもケーブルテレビが付設されインターネットサービスが始まった。ここから環境は大きく変貌するのである。

 インターネットサービス開始に当たって一人の会員から一八会のホームページ制作の提案があった。様々な活動の情報を発信することで幅広くPRし、ファンを増やす。おのずと新聞記者たちの目に留まり、記事を通していやがおうでも行政に認知させるという仕掛けである。

 かくして2000(平成12)年12月6日、ホームページ「多気の地域情報」が産声をあげた。
 ちなみにコンテンツの少ないなかでは大手検索サイトには認知されないため、多気町周辺の観光、文化、まちづくり活動(一八会)などをまとめてウェブサイトとして仕立てたところ、幸運にもYahooJapan!のカテゴリーに登録され、アクセス数も急増。SEO対策も万全に情報提供の環境は整ったのである。

  ホームページでの情報発信は思いのほか効果が大で、一八会の認知度も飛躍的に向上していくこととなった。


■ ホームページの復活ホームページ「地域応援しんぶん(メモリアル)」  (松阪紀勢生活創造圏づくり支援・その1)

 ホームページといえばこういう展開もあった。

 2000(平成12)年3月からスタートした「松阪・紀勢生活創造圏づくり」事業であるが、スタートと同時にホームページも公開され華々しいものであったと記憶している。 しかし、時が経過するにつれ更新はおろか事実上放置状態である。

 ホームページは生き物、ホームページは活動の旗頭である。どれだけ素晴らしい活動が続けられていても、看板のホームページがこんな形では、活動の足を引っ張ることになりかねない。
 「仏作って魂入れず」とは何事ぞと、見るに見かねて生活創造圏づくりのホームページ復活を提案。後日、事務局からの招請というかたちで自らに白羽の矢がたち、リニューアルに着手することとなった。

 かくして復活公開が実現。地域づくり活動や事例のデータベースとして、バイブルとして内外から多くのアクセスを集めた。

 2007(平成19)年3月末、生活創造圏づくり事業も県の事業再編により廃止となったがホームページの資産は全て自らがボランティアで引き継ぎ、多気の地域情報の傘下にメモリアルサイトとして、現在も公開を続けている。



■ Web版地域応援しんぶんホームページ「地域応援しんぶん」  (松阪紀勢生活創造圏づくり支援・その2

 松阪紀勢界隈の情報誌として、松阪・紀勢生活創造圏づくり事業を支える「隔月刊・地域応援しんぶん」が2001年10月15日より発刊されていたが、その編集長で元某新聞記者の知人に町でばったり出会ったことが縁で、「隔月刊・地域応援しんぶん」のWeb版の制作・公開を引き受けることとなった。
 懐かしい昔話の延長から、こういう新聞を編集しているとの話題に。
 自身も注目していただけに、紙ベースではもったいない。Webで公開すれば反響はこの限りでないとの提案も。この話が事務局に伝わり、「ミイラとりがミイラに」なってしまった。

 Web公開以降、圏域外からのアクセスも多く、2007(平成19)年3月末、生活創造圏づくり事業の再編により廃止なるまで、自らのWebサイトでボランティアで公開してきた。

  事業終息とともに、前述の「「松阪・紀勢生活創造圏づくり」ホームページの資産は全て自らがボランティアで引き継ぎ、「地域応援しんぶん」と改称して統合。多気の地域情報の傘下にメモリアルサイトとして、現在も公開を続けている。




松阪・紀勢界隈「五街道ウォーキングマップ」松阪・紀勢界隈「五街道ウォーキングマップ」  (松阪・紀勢生活創造圏づくり支援・その3)

 ホームページの復活から暫くして、「松阪・紀勢生活創造圏づくり」歴史街道部会からお呼びがかかった。

 松阪・紀勢地域を縦横に交差する5つの旧街道の魅力を広く情報発信し、より多くの人々にその地域価値(地域の宝物)を共有したいという思いからウォーキングマップを作成しようとするプロジェクトである。
 DTPのスキルを見込まれての招聘だったと聞くが、幸いにもプロジェクトには写真撮影に秀でた技術を持つメンバーや、逵代表などそうそうたる顔ぶれ。
 紆余曲折はあったものの、皆の努力の甲斐あって立派なウォーキングマップとして仕上がった。

  ここで終わらないのが仕掛け人たちの常。発刊と同時にウォーキングマップ入手についての問い合わせや申し込みが殺到するなど、その反響は大変大きく、それならばと、翌年度「五街道毎にウォーキングイベント」を企画・開催し、おまけにフォーラムまで展開するとは恐るべし仕掛け人たちである。




■ 宮川流域エコミュージアムの支援(その1)
イメージソング「故郷へ」

 もうひとつの展開として、逵代表夫妻らが参画するエコミュージアム宮川流域案内人活動である。

 エコミュージアムは1960年代後半にフランスで始まった博物館の取り組みで、地域の環境をそれらが本来ある場所で保全し、地域全体を博物館と考え、住民自らが魅力的な地域づくりを行うことで、地域経済の活性化や地域振興を図るというもの。
 日本一の清流「宮川」にはぐくまれた自然、歴史、文化、産業、伝統など、かけがえのない地域の記憶をみつめ、未来を創造していく「生きた博物館」活動を展開。そして、2004(平成16)年9月、「宮川流域エコミュージアム全国大会」が、伊勢市朝熊町の県営サンアリーナを主会場に開催され、全国各地から約650人が参加した。

 当時、松阪生活創造圏づくり事業でともに活動していた流域案内人(知人)のすすめで「宮川流域エコミュージアム全国大会」のイメージソングを提供するとともに、200枚のCDを自費で作り、無料で配って大会をPRしもした。

  元来、松阪・紀勢生活創造圏づくり協働プロジェクトのなかで、自身が主宰するバンド「フォークキャラバン」の提案事業「イメージソングで地域づくり支援」の一環として、4つのイメージソングを作り地域支援活動を展開していたのである。その集大成として作詞・作曲した「故郷(ふるさと)へ」は、いまもコンサートで歌い続けている。




■ 宮川流域エコミュージアムの支援(その2)全国大会告知ページ

 イメージソングの提供がきっかけで、自らも案内人として招聘されることになった。

 松阪紀勢生活創造圏づくり活動での実績が評価されてか流域案内人として全国大会を支援して欲しいというのである。
 先ずは目前に迫った全国大会に先駆けてホームページの作成である。コンテンツの構成もそこそこに、事前情報、開催結果、出来れば開催の記録を速やかに、タイムリーにと思いは膨らむも、与えられた時間は僅か二週間であった。
 全国大会告知のページも含め、なんとか形を整え公開にこぎつけた。

  大会期間中はもちろん、大会終了後も15の分散会リポートを中心に多くのアクセスがあり、概ね初期の目的は達成された。
 なお、現在も「宮川流域エコミュージアム」の公式サイトとして、流域案内人の活動を支えている。



■ 宮川流域エコミュージアムの支援(その3)

 ここで終わらないのが辛いところ。今度は、全国大会の公式記録集の編集に力を貸して欲しいというのである。

 この手の企画は、松阪紀勢生活創造圏づくり、歴史街道マップやウォーキングリポートでの実績もあり戸惑うことはなかったが、今回の記録集は15分散会コースの同時進行と、素人の人達に効果的な写真撮影とリポート草稿をいただかなければならない困難さがある。
 あくまでも参考イメージとして我が地域を例示したサンプルを作成し配布までした。これが功を奏してなんとかコンテンツは集まった。

 ことのついでは、並み居る流域案内人をさておいて編集長まで引き受けて欲しいていうのである。「勘弁してほしい」と言えないのが辛いところ。
 かくなるうえはと覚悟を決め、画像編集、レイアウト割り付け、出校、校正、検収のほか、DVD版及びWeb版の作成についても試行錯誤の末に、なんとかやり遂げることができた。後日談であるが、全国の参加者に記録集を送付したところ思いの外好評であったと聞く。

 スキルは命。「死ぬまで勉強会」を貫きたいものである。


■ 「車田」で日中文化交流雑誌「文明」掲載の「長谷の車田の写真」

 このほか、ホームページを通した情報発信活動の中から「日中の文化交流」も生まれた。

 きっかけは、2010(平成22)年4月、日本古来の車田に着目した中国北京の出版社「文明」孟睿氏からの一通のメールが届いたことに始まる。
高山市松ノ木町にある車田を特集するについて、効果的な写真が揃わず、「長谷の車田」に白羽の矢が立ったのである。

  メールでは、「長谷の車田・御田植祭をネットで拝見し、思わず日本人の創造力の高さに感嘆してしまいました。感心のあまり中国の読者にもその人文の色彩に溢れている文化遺産の素晴らしさを届けられるよう、また、両国の文化の交流がより一層幅広くなりますように心をもって、写真提供にご協力をお願いします」との内容である。
 高山市松ノ木町にある車田の特集とし企画・編集されているため、当地の記載内容は僅かながらも、写真で中国に活動を紹介出来るのはまたとない機会。「車田で国際交流が実現できるなら」と快諾したもので、後日、リクエストがあった写真(活動を支えてくれる地元の昔の娘さんなど20枚)をはじめ参考資料などを無償で提供した。

  3ヶ月後、雑誌「文明」2010年06月号が届いた。B5版150ページにわたる立派な雑誌である。特集は12ページわたり掲載され、全面写真を含む12枚中8枚が長谷の車田に関するものでインパクトも十分。
 写真で中国に活動を紹介したいという目的は十分に果たせたと思っている。早速、知人に翻訳を依頼し、全戸回覧は勿論、原画を大伸ばしにして関係者にプレゼントしたのはいうまでもない。



■ 結び

 こうして一八会の様々な取り組みが実を結び、新聞などの外部評価などによって地元行政にも認知された。また、インターネットによる情報活動を通じて全国の人々に一八会の活動内容を伝えることができ、多くのファンも出来た。極めつけは車田を通した日中文化交流である。

 当時、青年だった我々も定年を迎えるまでになった。発会当時よりは体力こそ落ちたが、気力はまだまだ負けない。

  「人生死ぬまで勉強会」が示す通り、活動に終わりはない。
 個々が天命を全うするときこそ、真の卒業証書が授与されるのであろう。
 「長年お疲れ様でした」と、ねぎらいの言葉を添えて・・・。

 「楽しみながらすべて手弁当で」「背伸びせず身の丈に合った地道な活動を」などを基本に、これからも一八会の活動は続いていく。

                                   Martin write.

 
 
■ 近長谷寺護摩復活と一八会のルーツ

 伝統の復活に村おこし期待(1989.02.18)
 35年ぶりに護摩が復活(1989.02.18)
 厄除けも“村おこし”(1989.02.17)



 
観音の里
所在地
地域おこしグループ「一八会」
〒519-2176
三重県多気郡多気町長谷
問合せ先:0598-37-2359(逵)

地図はこちらから

Page Top
Copyright(C) 2011 Martin  All Rights Reserved.